尊いものに囲まれて
尊いの不思議 20歳を過ぎた頃からよく使うようになった、感じるようになった言葉。”尊い”。この言葉が思い浮かぶ時、私の心には涙が流れている気がする。切なさとも寂しさとも違う、優しさと儚さと美しさが混じった、そんな感情だ。尊いものに囲まれて、私は毎日過ごしている。 中高生の頃の部活動を思い出す。同期は12人いた。皆個性豊かで、根は優しい人たちだった。かといってその個性を認め合えるほど大人ではなかったので、陰口や喧嘩が絶えず、仲が悪いことで有名と言えるほど、まとまりのない仲間達だった。そんな私たちでも、年に数回、全員が同じ方向を向いてぎゅっと集まり笑い合う瞬間があった。尊かった。部活を引退してから気が付いた気持ちだが、もうあの頃のような一見無茶な輝きは存在しない。 電車に乗っているとベビーカーに乗せられた赤ちゃんがこっちをじーっと見ている。私も見つめ返す。赤ちゃんがにっこり笑う。私もマスクをしつつもにこっと返す。赤ちゃんが手を叩いて喜んでいる。この名も知らぬ赤ちゃんはもちろん、私もこの一瞬の出来事をすぐにでも忘れてしまうのだろう。こんなにも幸せな気持ちになったのにおかしなことだ。ただこのわずかながら心が温まる出来事は今日という一日にとって大事な一コマで、おそらく二度とない笑顔のやり取りなのだ。尊かった。忘れたくないけれど忘れてしまう。その程度のことなのだと自分に言われているようで悔しい。 乃木坂46というアイドルグループのコンサートに何回か参戦したことがある。何万人も会場にいるなかでメンバーが大きなステージに立ち時折涙を見せながら歌って踊って、大勢のファンに声援をもらっている。先日のツアー最終日のことだ。「僕が手を叩く方へ」という楽曲披露の時だった。その曲は元々メンバーたちがクラップをしてリズムをとるバラード応援曲のようなものだ。会場に行く前から私はその曲はきっとファンも一緒になってクラップをするのだろうな、とは軽く予想しつつ音源を聴いていた。しかし実際に会場にいる皆がクラップをし、その音が一体化した時私は涙が出た。鳥肌がたった。何故なら、そこに今日たまたま集まった知らない者同士がその場の空気と音楽を共有しお互いを応援し合うことができたような気がしたからだ。歌詞にある「きみは一人じゃない がんばれ」が心の奥底まで浸透してきた。尊かった。人間が時が場所が変われば音も空気も変わる。あの鳥肌がたつような気持ちは二度と味わうことはできない。 そう、私たちは生きているうちに様々な尊いものに出会っている。心が動かされたり、感動したり、喜びに繋がったり、勇気付いたりと。しかしそれらはすべて過去形だ。二度と同じ瞬間は現れないし全く同じ気持ちなんて存在しない。つまり「尊い」という気持ちもほんの一瞬ですぐに蒸発してしまう。寂しくて切ないようだがそれが生きることの美しさだと思う。もしも同じ経験をパラメータを合わせて何度も出来るのならそれはもはや尊いとは呼べない。一度きりしかないからこそ、それを見逃さないように、今を大切に生きるのだ。人に優しくなれるのだ。同じ気持ちは長い時の中で二度と味わえないのだから。