それでも僕は、この国に生まれて良かった・・・
希望という心の中に
そう僕はあなたの胸の中で永遠の記憶になるのだから
もう、寒さに震える夜は終わるんだよ
あの遥か南十字星にむかって僕は行きます
僕は、歩んできたこの道を後悔はしていないよ
もう一度 きっともう一度
生まれ変わってあなたと一緒にあの丘の花を見にいくんだ
この国でしか見る事の出来ない想いでをもう一度・・・
※これから語るのは、僕が知る真実のほんの一部分です。終章にてその意味が皆様に伝わることを祈って・・・
撮影地 鹿児島県 長崎県 広島県 山口県
僕が「太平洋戦争」に興味を持ったのは、父から聞いた少年時代にアメリカ軍の戦闘機から銃撃を受けたという事が始まりでした。当時僕は14歳でした。
単なる興味から始まった戦争への関心は、ゼロ戦や戦艦大和の「かっこいい」という憧れでしかありませんでした。当時の僕は、陸海軍の艦船(戦艦、空母、巡洋艦、潜水艦)、航空機(戦闘機、爆撃機、攻撃機)に関する本や雑誌を買いあさり読みふけりました。
そして、豊田穣氏の著書に出逢い、「特攻」という聞きなれない言葉を知りました。
1944年(昭和19年)、日本(当時大日本帝国)海軍はミッドウェー作戦で主力空母を失い、事実上太平洋での制海権、制空権を失いました。
大日本帝国軍部はこの時点で日本は負ける事を知っていました。天皇陛下は言われたそうです。
「もう、この国には闘える艦(ふね)はないのか」と・・・
そして、1944年(昭和19年)10月21日・・・神風特別攻撃隊「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」が編成され、フィリピンの基地から24機が出撃。久納 好孚(くのうこうふ)少佐が未帰還。消息不明である事から全軍布告はされなかった。だが、事実上特攻の第一号だと僕は思っています。
そして同25日、フィリピンレイテ島沖で敷島隊の「関行男」中佐がアメリカ軍空母に突入、特攻第一号(公表)とされています。
関行男中佐は出撃前、こう語っていたそうです。
「僕には体当たりしなくても敵空母に50番[500kg爆弾]を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ、僕のような優秀なパイロットを殺すなんてね。僕は天皇陛下のためとか日本帝国のためとかで行くんじゃないよ。KA[妻]を護るために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう!」
国民を鼓舞するために逝かされた「生命」。その後、優秀なパイロットたちは後を追うように遥か南方の海へと飛ばされていきました。愛すべき人を守るため、そう自分に言い聞かせ、死する意味を正当化したのです。
以前にも書きましたが、昭和20年戦争末期には17歳の少年兵までもが沖縄の海原へと散っていったのです。
彼らは、飛ぶことはできても、着陸は教えられなかったそうです。
「生きて還るな」・・・それが合言葉でした。
そして、8月15日鹿児島県鹿屋基地(海軍)、知覧基地(陸軍)を始め、特攻基地の司令官や将校たちは、先に送った若人の魂に報いるべく、単機で沖縄の空へと飛び立たれたと聞いています。軍のトップたちは、責任を取っていないのに・・・。
幼い少年兵たちの青春を奪った責任をその背に負って・・・
特攻を指示した現場の司令官たちもきっと、自分たちのこどもを特攻に送る事の矛盾を感じていたのです。
日本人の精神(国体)とは、命をも投げ打って守らなければならないものだったのでしょうか。
現在、戦争で犠牲となった方々を祀る慰霊碑が、日本のみならずアジア太平洋各地に建立され当時を共に闘った方々やご遺族、ご子孫の皆様によって粛々と守られています。
戦争を知らない僕たちにできること
二度と・・・慰霊碑を建てない事 そして「歴史」という二文字で終わらせてはならない命の重さを・・・
2.26事件があった今日、僕はこの詩を胸に刻みます
未来のために愛すべき人を守るめに散っていた彼らの魂を・・・決して忘れないでほしい
永遠に・・・
希望という心の中に
そう僕はあなたの胸の中で永遠の記憶になるのだから
もう、寒さに震える夜は終わるんだよ
あの遥か南十字星にむかって僕は行きます
僕は、歩んできたこの道を後悔はしていないよ
もう一度 きっともう一度
生まれ変わってあなたと一緒にあの丘の花を見にいくんだ
この国でしか見る事の出来ない想いでをもう一度・・・
※これから語るのは、僕が知る真実のほんの一部分です。終章にてその意味が皆様に伝わることを祈って・・・
撮影地 鹿児島県 長崎県 広島県 山口県
僕が「太平洋戦争」に興味を持ったのは、父から聞いた少年時代にアメリカ軍の戦闘機から銃撃を受けたという事が始まりでした。当時僕は14歳でした。
単なる興味から始まった戦争への関心は、ゼロ戦や戦艦大和の「かっこいい」という憧れでしかありませんでした。当時の僕は、陸海軍の艦船(戦艦、空母、巡洋艦、潜水艦)、航空機(戦闘機、爆撃機、攻撃機)に関する本や雑誌を買いあさり読みふけりました。
そして、豊田穣氏の著書に出逢い、「特攻」という聞きなれない言葉を知りました。
1944年(昭和19年)、日本(当時大日本帝国)海軍はミッドウェー作戦で主力空母を失い、事実上太平洋での制海権、制空権を失いました。
大日本帝国軍部はこの時点で日本は負ける事を知っていました。天皇陛下は言われたそうです。
「もう、この国には闘える艦(ふね)はないのか」と・・・
そして、1944年(昭和19年)10月21日・・・神風特別攻撃隊「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」が編成され、フィリピンの基地から24機が出撃。久納 好孚(くのうこうふ)少佐が未帰還。消息不明である事から全軍布告はされなかった。だが、事実上特攻の第一号だと僕は思っています。
そして同25日、フィリピンレイテ島沖で敷島隊の「関行男」中佐がアメリカ軍空母に突入、特攻第一号(公表)とされています。
関行男中佐は出撃前、こう語っていたそうです。
「僕には体当たりしなくても敵空母に50番[500kg爆弾]を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ、僕のような優秀なパイロットを殺すなんてね。僕は天皇陛下のためとか日本帝国のためとかで行くんじゃないよ。KA[妻]を護るために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう!」
国民を鼓舞するために逝かされた「生命」。その後、優秀なパイロットたちは後を追うように遥か南方の海へと飛ばされていきました。愛すべき人を守るため、そう自分に言い聞かせ、死する意味を正当化したのです。
以前にも書きましたが、昭和20年戦争末期には17歳の少年兵までもが沖縄の海原へと散っていったのです。
彼らは、飛ぶことはできても、着陸は教えられなかったそうです。
「生きて還るな」・・・それが合言葉でした。
そして、8月15日鹿児島県鹿屋基地(海軍)、知覧基地(陸軍)を始め、特攻基地の司令官や将校たちは、先に送った若人の魂に報いるべく、単機で沖縄の空へと飛び立たれたと聞いています。軍のトップたちは、責任を取っていないのに・・・。
幼い少年兵たちの青春を奪った責任をその背に負って・・・
特攻を指示した現場の司令官たちもきっと、自分たちのこどもを特攻に送る事の矛盾を感じていたのです。
日本人の精神(国体)とは、命をも投げ打って守らなければならないものだったのでしょうか。
現在、戦争で犠牲となった方々を祀る慰霊碑が、日本のみならずアジア太平洋各地に建立され当時を共に闘った方々やご遺族、ご子孫の皆様によって粛々と守られています。
戦争を知らない僕たちにできること
二度と・・・慰霊碑を建てない事 そして「歴史」という二文字で終わらせてはならない命の重さを・・・
2.26事件があった今日、僕はこの詩を胸に刻みます
未来のために愛すべき人を守るめに散っていた彼らの魂を・・・決して忘れないでほしい
永遠に・・・