再掲載です。
2年前に書いた、小説の真似事です。
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一人娘のさゆりは、母親の臨終にはわずかに間に合わなかった。
「おかあさん・・・」個室の病室に着いたさゆりは、それだけを言うのが精一杯だった。ぽろぽろ流れ落ちる涙。さゆりも母親の左手を握りしめた。
父親の敏雄は、母親の右手をしっかりと握りしめている。涙を必死でこらえている様子だった。さゆりが見る限り、母親の表情には平穏さが漂い、すべてに満足しているかのようにさえ見えた。
敏雄は、涙をこらえながら妻に語りかけた。
「早苗、早苗、早苗・・・愛してるよ、早苗」
次の瞬間、敏雄の目からは、涙がとめどなくあふれてきた。さゆりにも下を向いた父の目から、涙がしたたり落ちているのが見えた。
さゆりは驚いた。愛してる、なんていう言葉が父親の口から出るなんて信じられなかった。確かに仲のいい夫婦だとは思っていた。いつも一緒に買い物に行っていたし、一緒にお風呂にも入っていたし、寝る時も同じベッドで一緒だった。しかし、「愛してる」という言葉を母にかける父親は、見たことがなかった。
さゆりは、静かに病室を出た。娘のわたしでさえ、立ち入ってはいけない夫婦だけの絆があるのだと感じた。父と母をふたりだけにしてあげること。それだけが今のさゆりに出来る最高の親孝行だと。
人が亡くなると、いきなりあわただしい日常が始まる。
葬儀業者への連絡、親戚や会社関係への連絡、葬儀業者との葬式の打ち合わせ、費用の工面、葬儀用の写真の手配、通夜の来訪者への対応、役所へ出向き火葬証明書の受け取りなど、雑用に忙殺され、悲しんでいる暇がなくなる。敏雄の携帯にも見慣れない電話番号が、ずらりと並んでいた。
しかし、妻に寄り添って線香をあげ続けた通夜の夜だけ、線香のゆらゆら揺れる煙をずっと眺めつづけながら、敏雄は悲しみの底に沈み、その現実を受け入れようともがいていた。
4日後、葬儀は無事にとりおこなわれ、親戚との会食も済ませ、遺骨と共に敏雄とさゆりは自宅に戻った。
「いろいろと手伝ってもらって、助かったよ、やっぱり子供がいると心強い」
「お父さんこそ、お疲れさま。お通夜の夜だって、お父さん、あんまり寝てないんじゃないの?」
「え、いやぁ、大丈夫だよ、お母さんのそばにいてあげたかったからさ、大丈夫だよ」
「でも、これからは食事に気を付けてもらわないと」
「あぁ、そうだなぁ、お前もすぐに引っ越すしな」
一人娘のさゆりは、1年前から付き合い始めた彼氏が栃木の実家の近くに引っ越すらしく、一緒に暮らすことになったのだ。
「お父さんは、料理ぜんぜん作れないから、引っ越すまでになんか教えようか?」
「いやぁ、いいよ、俺ヘタだしさ」
「でもさあ、お母さんのきれいな台所を汚されるのも、あたしとしてはイヤだな」
「そうだ、そうだ、料理しなければ汚れないよ」
「ほんとにお母さんは、台所をきれいに使ってたね、まさに自分のお城って感じで」
「うん、そうだな・・・いつもあの自作の布巾できれいにしてた。“台所はいつもきれいにしておかないとね”が、口癖だったよな~」
「そうね」
「うん・・・」
「今夜は、お母さんに教わった味噌汁作るから」
「うれしいね、頼むよ」