それは夏の近い空が清々しい程に晴れ渡った昼下がりの事だった。
博麗神社の巫女である博麗霊夢はいつものように日課の掃除をしている。
この日差しの下、巫女服と呼ぶには少々涼しげな格好をしているのだが、
それでもまだまだ暑そうにしながら手に持つ竹箒でそこらの砂埃を払っている。
そろそろ麦茶を出してもいい季節かもしれない。
西瓜の季節にはまだ早いし、今度里に下りた時に水羊羹でも買ってこようかしら?
実に暢気にそんな事を考えながら、霊夢は頬を伝う汗を手ぬぐいで拭い去った。
今日はいつにも増して暑いんじゃないだろうか?
彼女を襲う暑さにだんだんと苛立ちを感じ始めたのか、その動作が次第にゆっくりとしたものになっていく。
「あ~、やってられないわね。休憩にしましょ」
ついには箒にもたれ掛かって座り込んでしまった。
ここらで涼しい風でも吹いてくれればいいのだが、生憎と今日は風一つない見事な快晴だった。
神社に植えられた桜の木達はその青々とした葉を惜しげもなく日にさらし、
もたらされる暑ささえも受け入れて力強く色づいていた。
座り込んだ所で別に暑さはどうしようもない事に霊夢が気づいた時には、すでに彼女は汗まみれになっていた。
「ほんっと、あったま来るわねえ」
半眼になって不貞腐れる。氷水で冷やしていた手ぬぐいは、既に冷たさを失ってぬるくなってしまっていた。
今日も博麗神社に参拝客は居ない。
生活する上で霊夢は別段資金難と言うわけではないのだが、
やはり主だった収入が巫女としてではなく妖怪退治屋としてというのはどうにも本意ではなかった。
このままでは自分の祀っている神様も飢え死にしてしまうのではないだろうか、と。何となく考えてしまう。
「まぁ、巫女の私が食べていられるんだから平気よね」
変な所で自分を納得させているが、当人は至って真面目である。
ここまで来てようやく霊夢は自分が暑さにやられているのに気がついた。
とたんに先程までの苛立ちが蘇ってくる。
「暑い!」
不機嫌そうに大声を上げ暑気を払い立ち上がる。と、
彼女の視線の先、神社の入り口の方に男の姿を捉えた。
一体いつからそこに居たのだろうか?
整った顔立ちをした青年が、鳥居の下に立っていた。
感心しきりといった顔で神社の方を見ている。
その表情が霊夢にはどこか気の抜けきっている様に見えた。
少し髪がぼさぼさしているのが原因かもしれない。
服装はこちらではあまり見かけない青白いシャツと灰色のズボン。
脇に抱えた小汚い色をした大きなバッグが、彼にはよく似合っているように思える。
青年はしばらくキョロキョロと辺りを見回すと、のんびりとした足取りで境内へと入ってきた。
そして霊夢の直ぐ傍までやってくると、また辺りをキョロキョロと見回す。
ここまで近くに来たというのに挨拶すらない事に霊夢は少し憤りを感じたが、
それより彼が持つ小汚いバッグが妙に目を引き、そちらの方に意識を持っていかれていたのでそんなに気にしなかった。
小汚いバッグの中には、大きなスケッチブックが入っていた。
よくよく見てみれば彼のバッグは小汚さの原因は色々な色の染みであり、よく使い古されている証であった。
さらに良く見れば、バッグには筆入れやパレットの姿も確認する事ができた。
その辺りまで考えが巡り、彼は絵描きなのかと霊夢が思ったときだった。
「あぁ、ここはなんてボロいんだろう」
青年の口から聞き捨てならない言葉が出てきた。
この男はろくに挨拶もしないどころかわざわざ聞こえよがしに文句などをたれたのだ。
当然の事ながら霊夢はカンカンに怒った。
目の前に立って青年の顔を見上げると、鋭い口調で言葉を放つ。
「ちょっと、いきなり失礼じゃない!」
とたん、青年の顔がぎょっとした表情を浮かべ、その目が見開かれた。
丁度睨み合いの形になって、霊夢は彼の目が酷く綺麗な蒼い色をしている事に気がついた。
まるで空のように透き通った蒼だった。
「え?」
そんな瞳を持った青年は今、酷く困ったような表情を浮かべている。
当然、彼の目が蒼かろうが霊夢には関係なかったので、彼女は言葉を遠慮なく続けた。
「人に会っても挨拶すらせず、しかも住んでる場所を馬鹿にするとはどういう了見なのかしら!」
自分から挨拶しなかったのは棚に上げているが当人はまったく気にしていない。
霊夢は先程までの暑さももう引いたのか、今はその熱い視線を青年へと向けていた。
しばらくその一方的な睨み合いが続く。
口を開いたのは青年の方だった。
「居たの?」
「居たわよ!」
青年の物言いにますます霊夢の怒りが強まる。
失礼千番にも程がある。賽銭入れるだけじゃ許さないといった気配すらさせていた。が、
「いやあ、いきなり現れたもんだからびっくりしたよ」
この言葉に彼女の勘がピンと来た。
勘というモノは様々な経験を元に発露する人間の擬似的な予測能力であると、どこかの妖怪が言っていた気がするが、霊夢の勘はまさにその類の物だった。
この青年、振る舞い調子こそそこらの里の者にそっくりだが些か違う。
「いやまさか、神社が実はこんなに綺麗だったとはねえ」
青年が先程とは違った感想を述べる。この言葉で彼女は確信した。
彼は幻想郷の住人ではなかった。所謂外の世界の住人だったのである。
「これって所謂、異世界って奴なのかな?」
のんびりとした口調で青年が言う。
その言葉には気負いもなく、むしろ未知の物に触れる好奇の気持ちが感じられた。
「ええ、ここは幻想郷。人と妖怪が暮らす…そっちからすれば、異世界よ」
自分が声をかけたことで彼はあの境界を越えてしまったのだろう。
そんな事を考えながら霊夢は青年の問いに答えた。
青年はへぇとかほぉとか言いながら、感心した様子で辺りを見回している。
どうにも雰囲気のおかしな奴だった。
少なくとも自分の知っている外来人と言うものは、目の前で起こる不思議な出来事に対してもう少し動揺するものである。そうでなくとも大きく心を揺り動かされたりする物なのではないか。
自身の常識を覆すような出来事に対して、目の前の青年はあまりにも暢気だった。
「こりゃ驚いた」
全然驚いた気配もなく、青年が呟いた。


それから、霊夢は青年を座敷に上げると彼に茶を振舞った。
今時分は夏も近づく八十八夜と言うには少し過ぎているが、新茶の季節には違いない。
この季節に出すには少々不釣合いの熱いお茶を、しかし青年は美味しそうに飲む。
思ったよりも青年とは気が合うかもしれないと、なんとなく霊夢は思った。
「やあ、お茶が美味しい!」
青年が幸せそうな表情でお茶の熱が喉を抜ける感覚を楽しんでいる。
ゆるみきった頬からは、それ以外の感情は見受けられない。
(…もうちょっと、動揺とかしないのかしらね)
そんな事を考えながら、霊夢は青年の顔をまじまじと観察する。
少し日に焼けてはいるが、元は綺麗な白い肌をしているのだろう。
整った顔立ちと相まって、落ち着いた気配を感じさせる。
彼の佇まいもそれを強調しているようだった。
暢気に茶をすする青年からは、どこか老成した雰囲気すら感じられるのだ。
若さと老いの共存。この不思議な感覚はどこか彼女に似ているなと、霊夢はここに居ない妖怪の顔を浮かべる。
「幻想郷か…」
ふと、庭の方に視線を移して青年が呟く。
彼の蒼い目は、しかし庭ではなくどこか遠くを見ているようだった。
「帰りたいんだったら何時でも言いなさい。追っ払ってあげるから」
青年の挙動に霊夢はそんな言葉を投げかけた。
ここは場所的にも人材的にも幻想郷から出るのに苦労しない所である。
今回のような事故(霊夢はこれを事故だという事にした)は過去にも何度か経験している。
こうして促せば、大半の連中は元の世界へと帰っていった。
「帰る、か。まだいいかな」
青年の返事も、しかし霊夢にとっては耳新しい物でもない。
そう言って幻想郷に残る物もまた確かに少数ながら存在した。
そんな輩は大抵人里に下りそこでのんびりと過ごす。そうでない連中の事は大して気にならない。まぁ殆どの場合、妖怪に出会い恐れをなして帰ろうとする。
彼は、どうなのだろうか。
「もしかして、あんた紫?」
思わずそんな事を口走ってしまう。だが、青年の表情を見るまでも無く霊夢は首を横に振りそれを否定した。
冗談にしては陳腐だし、本気にする所でわざわざそんな事をする理由は無い。
それになにより、もし何かを試しているのだとしたら。
一発どつけば判るのだ。
「あいだっ!」
気づいた時には既に遅く、霊夢は青年の後頭部を強かに打ち付けていた。
思っていた事をついつい実行に移してしまったらしい。
恨めしそうな視線を受けて、流石に申し訳ない気持ちになった。
「あ、ごめん。何だか知り合いに似てて」
「知り合い? 君は知り合い相手に容赦が無いんだな」
頭をさすりながら青年が言う。彼の手元に置かれているバッグの掴みがぐしゃりと潰れていた。
ここに来て、霊夢はようやくある事に気がついた。
「そういえば、貴方名前は?」
「ああ」
ポン、と青年も手をついた。
そういえばお互いまともな挨拶を交わしていない。
いつもならそんな人間を座敷に上げるような真似はしない。
この青年は霊夢にそうさせてしまうほど、場に馴染んでしまっていた。
「なんていうか、ほら。初めて会った気がしないのよね」
「初対面さ。だってそう、君は幻想の生き物じゃないか」
「は?」
どこかで聞いたような言葉を、思わぬ所から耳にした。
「幻想郷に生きる生物は、皆幻想の生き物だろう?」
「あなた、実は霖之助さんだったのね」
「その人も幻想の生き物なのかい?」
「まぁそうね」
なるほど、と霊夢は心の中で大きく頷いた。
この青年の感性は、ともすればこの幻想郷の空気に合っているのかも知れない。
きっと外の世界では浮いていたに違いない。
「失礼な事考えてないかい?」
「考えを読むなんて失礼ね!」
「ああごめん。……あれ?」
違和感に気づいて顔を少し歪めた青年の顔は、不自然なくらい自然に見えた。
「それで…」
霊夢はまだまだ熱いお茶を一口すすってから切り出す。
「あなたのお名前なんじゃろな」
ちょっとおどけてしまったのは、青年への礼か。
自分は今笑ってしまっているなと霊夢は自覚する。
対する青年は、ふふんと鼻を軽く鳴らし笑みを作ると、
「川合真彦、一応、現役の学生にしてただの絵描きでございます」
そう言って手元のバッグを優しく撫でた。
「博麗霊夢、この博麗神社の巫女よ。よろしく真彦さん」
「よろしく霊夢」
言葉を交わした二人は、ほぼ同じ挙動で湯飲みを口に運ぶ。
静寂が、博麗神社に訪れた。
ちゅんちゅんと雀が鳴き、未だ暑さを忘れない陽の光が遠慮を知らぬまま大地に照りつける。
暑い暑い夏の気配は、確実にそこまでやって来ていた。
「…………」
真彦も霊夢も口を開く様子は無い。その瞬間はまだ先、遠くにある。
実にのんびりとした時間が、二人の暢気者の間を通り過ぎていった。


「あ、そうだ。言い忘れてたわ」
その言葉を霊夢が口にしたのは、静寂が降りてから実に十五分も経ってからだった。
「なんだい?」
破られた静寂に、真彦はさして気にした風も無く応じる。
彼の視線の先には、実に気の抜けた顔をした巫女が笑っていた。
「ようこそ、幻想郷へ」
そう言って改めて浮かべた笑顔。そこに真彦は、彼女の魅力を垣間見た気がした。
こうして青年は、幻想郷へと招かれたのである――。

毎度お馴染み夏目屋です。

このブログについて少々。書き記したいと思います。


ここでは所謂二次創作の小説をダラダラと書き記していこうと思っていますので

そういうのが苦手な方々はまずどうかご容赦の程宜しくお願い申し上げます。


ここでは主に東方だとか幻想入りだとか言われている物を扱っていますので

通常の日記などをご期待されていらっしゃる方には不似合いな内容となっております。


なんとも無しに見に来てくださった方は、まぁ物は試しと見てみるのもいいかもしれません。

結果は保証しかねますが。


ともかく、自分も楽しく、読んでる人も楽しめればなおよしの精神で活動しております。

感想など御座いましたら、どうぞコメントに残していってください。


では、楽しむ方はどうぞ楽しんでいってくださいませ。

視界一杯に青い空が広がっていた。
トレンチジャケットから少し湿った気配を感じ、柔らかい地面を確認した。
鼻腔をくすぐる草と土の匂いに、ようやく自分が草むらで寝転んでいる事をその少女は自覚する。
気がつけばこの状態だった。
少女に寝転がった記憶はなく、行き倒れた記憶もなかった。
何だか頭が混乱しだしたので少女は一つ息をつく事にする。
吸い込んだ空気は信じられないほどおいしかった。
見上げた空はどこまでも澄み切っていて、
視界の端を横切った大きな鳥の影が、なんだかのびのびとしているように思えた。
自分の生まれ育った所は勿論、これまで旅をしてきたどの場所よりも、この空は綺麗だと感じる。
綺麗だなぁと彼女が呟く。
それは少し高く、いかにも少女然としたよく通る声だった。
いっそこのまま寝転がって延々とこの空を眺めているのもいいかなと、少女は考え始める。
「ワタラベハルカ」
自然と口をついて出てきたのは自分の名前だった。
それから少女-遥は身の回りから、趣味、好み、今気になっている事などをぽつぽつと呟き始める。
彼女の名前は渡良部遥といい、現役の学生であり趣味は旅行。
好みは青々とした植物や生き生きとしている動物で、
命の息吹きや力強さを感じさせるものその全てが好きだった。
学校が今の様に長期休暇に入ると、颯爽と旅支度を済ませて
彼女は旅に出る。そうして各地で自分の好きな物を見つけるのだ。
それは場所によっては人であったり物であったり様々である。
そしてそれらの出会いや経験をしっかりと手帳に記して
彼女は旅を区切るのだ。
「……うん、ちゃんと私だ」
遥は次に、首を左右にゆっくりと振る。指も動かしてみた。
彼女の四肢はしっかりと彼女の物だった。
彼女が命令を下せば、その浅焼けた細い腕もすらりと伸びた健康的な足も、彼女の思う通りに動かす事ができた。
安心してゆっくりと身を起こすと、頭や背中に付いていた土や泥を払って立ち上がった。
お気に入りのジャケットと自慢の栗毛の短髪が、
そこはかとなく汚れているのに気づいて少し憂鬱になった。
辺りの草の葉がガサガサと音を立てて揺れる。
「んーっ」
ホットパンツについた埃を丁寧に払い、遥は大きく伸びをした。
周辺はどこを見ても見た事のない景色が広がっている。
それらは彼女の記憶のどこにもない風景だった。
「…夢っていうのも疑ったんだけどなあ」
自分が置かれている状況は流石に信じがたい物がある。
なぜなら、彼女の記憶の中にいる最も近い自分は、余所行きの電車に乗っていたのだから。
それを思い出して何かに気がついたのか、遥はゴソゴソとジャケットのポケットを漁り始めた。
しばらくガサゴソと中を弄繰り回して後、ようやく目当ての物を見つけたのか、遥の表情が綻んだ。
彼女の手には一枚の切られた電車の切符が握られていた。
少なくともこれで自分が電車に乗っていた事は確かになった。
「とすると、これはどういうことかな」
顔をしかめて遥は考えをめぐらす…が、答えは何時までたっても判らなかった。
途方に暮れ思わず見上げた遥の黒い瞳に、またあの空が映る。
青い青い空が遥の視界を埋め尽くす。
今自分が置かれている状態が非現実的な物の塊だという事を理解していても、遥はどこか落ち着いていた。
それは多分にこの空が、今まで見た中で一番綺麗だったからだろう。
不安がないわけではない、恐れがないわけではない。
だが景色一杯に感じるこの気配を、とりあえず今、信じてみる事にした。
近くに放り出されていたリュックを背負う。
運のいい事にリュックとアレはしっかりとこの場にあった。
どうにも都合がいいと思えはしたが素直に喜ぶ事にする。
遥は同じく近くに落ちていたそれを拾い上げ頭に被る。
それは茶色いベレー帽だった。
いよいよいつもの調子を取り戻した遥は、
今置かれている状況などを纏めて、これを旅だと決める。
「要領は一緒。とりあえず周辺を調べてみないと!」
そう声を出す遥は、普段良く見る明るく前向きな彼女だった。
視界の先に広がる草原が、一陣の風に吹かれざわめいていた。



その場に留まっているのも進展がないだろうと遥は歩き始めた。
膝から腰の辺りまで草がガサガサ生えている草原の中を、遠慮なく払って前へと進んでいく。
踏み仕切る土の感触、靴に跳ねる泥の感触。
払った時に足を撫でていく草の感触。切り裂く風の感触。
その全てが彼女にとってはこの旅を楽しむ香辛料だった。
だが、いかに旅を楽しもうとも。
「人に会わなきゃ意味がないのよね!」
歩き始めて四半刻ほど経った辺りで遥は叫んだ。
だがその声を聞き届ける人影はなく、つい先程抜け切った草原が後ろの方で風に揺られているだけだった。
草原を抜けた先には小川が流れていた。さらにその先は森になっているようである。
今更ながら移動する方向を間違えた気が遥にはしていたが、森の中にこそ人の住む空間があるかもしれないと

考えを改めた。
それよりなによりも、目の前に流れている小川が彼女の気を引いていた。
深さは深い所でもふくらはぎ程しかなく、水の流れも大して早くはない。
遥は試しに浸かってみる事にした。
靴を脱いで素足を晒し、川の中へと足を踏み入れる。
「つめたっ」
驚いた拍子に一瞬足を取られそうになるも持ち直した。
始めは思った以上に冷たいと感じた流水も、慣れてしまえばどうという程ではなくなった。
「うぅ~~っ」
たまらなくなった。
背負っていたリュックを放り投げ、遥は勢いに任せて膝を折り両の手をついた。
バチャンと水しぶきがあがり先程以上に彼女の身体を涼しさが包んだ。
そのまま水を掬って顔にかける。
サワサワと流れる風が、草原を歩いていた時よりも優しく吹いているように感じられた。
いい加減ここはどこなんだろうと、頭で考える事を遥は諦めていた。
判っている限りでここはまずどこかの山地なのだろう。
遠目に見るといくつか山の連なっている場所があるのを草原にいた時に確認している。
遥は起き上がり小川の脇に腰掛けると、そのまま今度は倒れこんだ。
足先を川の流れに浸したまま「あー」とか「うー」などと声をあげながら瞳を閉じる。
胸の奥の方から、何か良くない気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
気にしないようにしていても、どうしても拭い去れない不安が彼女の中には存在したのである。
ここがどこか。せめてそれだけでも知りたかった。
遥の願いが通じたのか、答えはその直ぐ後にもたらされる事になる。



「ふぅ…」
すっかり意気消沈してしまった遥は、緩慢な動作で身支度を整える。
靴を履き汚れを払いリュックを背負う。
たったそれだけの動作の間に少なくとも4,5回、彼女はため息をついた。
ガサガサと音がして、遥はそちらに視線を走らせる。
出てきたのは野兎だった。動きやすそうな夏毛をしている。
跳ね去っていく兎を見送り、遥はまた大きくため息をついた。
確実に音の主が人間である事を期待してしまっていた。
ココに来て、遥は今まで感じた事のない恐怖を自覚した。
周りに誰もいない事の恐ろしさに涙が出そうになる。
「………っ!」
ブンブンと首を振り、恐れと涙を振り払う。
勢いあまって被っていたベレー帽が落ちてしまった。
遥はしばらくぼうっと地に落ちたベレー帽を見つめていた。
どうにも気分以上に心が落ち込んでしまっていた。
フッと、あたりが薄暗くなったのに気づいたのはその時である。
日が傾くにしても早く、何よりもこの暗さは宵闇のそれに近い。
そんな暗闇が遥の周囲を包み込むように広がっていた。
「え?」
これ以上私にどんな目に遭えと言うのだと、涙目になる。
もういっそ、どうなってしまっても…
「んー? なんだか美味しくなさそうー」
はっとする。
声がした。間違いなく声がした。
女性、それも少女くらいの年齢のかわいい声だった。
「そこにいる人間はどーして泣いているの?」
声は尚も遥の耳に届く。
もう疑いようもなくそれは人の声だった。
周辺の闇がさらに濃くなる。
「誰かいるの?」
突如出来た暗闇に目が慣れていないため声の主を確認する事ができない。
だが先程からする声の持ち主は、確実にこちらに近づいてきているようだった。
「ここにいるよー」
少女の声がさっきよりも更に近い所から聞こえた。
どことなく楽しげで、遥はこの妙な状況にもかかわらず安堵感を得る。
ほうと胸を撫で下ろすと、未だ見えぬ声の主に言葉を返す。
もう大体の方向は察している。
「ねぇ、あなたは誰?」
「私? 私はルーミア。ルーミアだよ」
問いかけに素直な答えが返ってきた。この少女の名前はルーミアと言うらしい。
日本人っぽくないなと遥は思ったがそれ以上は別にどうでもいい事かと気にしなかった。
よくよく考えてみればこの状況は非常におかしいのだが、
そんな事にも気づけないほど彼女は追い込まれていたのだろう。
「ありがとうルーミア。私は遥。渡良部遥よ」
「ハルカ?」
「そう、遥。遥か遠くの遥よ」
「んー?」
どうやら漢字の説明をしても理解してもらえなかったらしい。
夜の帳が落ちきったような暗闇の中で、二人の奇妙な会話が続く。
「ねぇルーミア。ここってどこなのかな?」
「ここは森だよ」
「そうじゃなくって、地名。場所の名前」
「魔法の森の外れだよ」
「魔法の森? どこかの山の村か何かなのかしら」
「人里はそんなに遠くないよ?」
微妙にかみ合っていない会話だったが、遥の望んで止まなかった情報のいくつかが一度に手に入った。
少なくともこれまでのような不安感は無くなった。
感謝の気持ちがこみ上げてきて、遥は相手に見えているかもわからないまま頭を下げた。
「ありがとう!」
突然の大声にルーミアはわっと声をあげる。
しばらくの間が空き、えへーと照れたような声がそれに続く。
「元気になってよかった」
そういうルーミアの言葉には、その言葉以上の喜びを感じられた。
ひしひしと伝わってくるそのストレートな気持ちに、これだから旅はやめられないと遥は嬉しい気持ちになった。
「もう大丈夫?」
返事が無いのを気にしたのかルーミアが声をかけてくる。
遥は多分だらしなく笑っていいただろう顔をすっと引き締めて、おおよそ定めた方向へ向き直った。
まだ目は慣れなかった。
「うん、平気。ありがとうルーミア。あなたのおかげで私、旅を嫌いにならずに済みそうだわ」
「旅をしているの?」
「うんそう。私、日本各地を適当に回っているの。今回はちょっと予定とは違う旅になっているんだけど、

 楽しくなってきたわ」
「そーなのかー」
視界の先にぼんやりと人影が現れたのを遥は捉えた。
背丈は遥より少々低いくらい、思った通り少女だった。
日の元にいれば金色に見えるであろう髪と、黒柄の洋服。髪に結んである赤いリボンがなんとも可愛らしかった。
おそらくこの少女こそがルーミアなのだろう。
彼女は見上げた視線の先から、ゆっくりとホバリングをするように遥の方へと近づいてきていた。
「………………」
頭から、さぁーっと血が引いていく気配を遥は感じた。
この状況はどう考えてもおかしい。
そもそも自分よりも身長が低いと思われる少女を見上げている構図。
ふらふらと上下運動を繰り返しながら近づいてくる様。
どこをとっても尋常じゃなかった。
ここにきて冷静に働き始めた遥の脳内で、周辺の暗闇の事が頭に浮かぶ。
「そそそそそういえばさっきから妙に暗くないっ?」
目の前に浮かぶ少女の口が開かれる。
「暗い方が眩しくなくて涼しいし過ごしやすいよ?」
さも当然といった様子で紡がれた言葉。その意味は直ぐには理解できなかった。
「だからこうやって暗くしてるんだもの」
ルーミアの瞳の色が、彼女の開かれた口と同じ赤色だという事実に遥は気がついた。
背筋がゾクゾクと震える。
間違いなく目の前に浮かんでいる少女は人間ではなかった。
少なくとも自分の知りうる知識で表現するのなら、化け物というカテゴリーに彼女は含まれる。
「ねぇっ」
ルーミアが遥の眼前で静止した。
彼女の吐く息が遥の鼻先にかかる。生ぬるかった。
それは見た目には正しく可憐な、本当に可憐な少女の姿で、無邪気に残酷な笑みを浮かべたまま口を開いた。
「あなたは、食べられる人類?」
遥は時が止まった瞬間というのを肌で感じた。
明確な終わりを告げる言葉が投げかけられて、目の前の少女が両手を振り上げたのを確認してなお、

自らの時間が動き出さない事を自覚した。


ポコンッ!


「あいてっ」
突如ルーミアが声をあげて飛び退る。
慌てたのかそのまま暗闇も払われ昼の日差しが取り戻された。
突然の日の光に遥の体は弾けたように反応する。そのまま制御できずに尻餅をついた。
「うわっ」
上ずった声で軽い悲鳴を上げる遥に、聞いた事のない声が聞こえた。
「大丈夫か?」
ややぶっきらぼうだが愛嬌のある女の子の声だった。
尻餅をついたまま、遥は声の主をその目に捉える。
その少女もやはり遥の見上げた視線の先に居た。
箒にまたがるその格好は、黒白二色のエプロンドレス。
そして、綺麗に編まれた黄色い髪の、いわゆる魔女が其処にいた。
魔女の女の子は頭にかぶった大きな黒い三角帽子のツバをくいっと持ち上げ遥に微笑みかける。
「人間の一人歩きは命取りだぜ」
彼女はそれだけ言ってさらに笑顔の色を強める。
その様子をぼぅっと見つめていた遥は、ようやく自分が戒めから解かれている事を理解した。
「あ…」
「話は後だ、今は目の前の妖怪退治をさせて貰う」
そう言って、黒白の魔女は視線を遥からルーミアへと移した――。