それは夏の近い空が清々しい程に晴れ渡った昼下がりの事だった。
博麗神社の巫女である博麗霊夢はいつものように日課の掃除をしている。
この日差しの下、巫女服と呼ぶには少々涼しげな格好をしているのだが、
それでもまだまだ暑そうにしながら手に持つ竹箒でそこらの砂埃を払っている。
そろそろ麦茶を出してもいい季節かもしれない。
西瓜の季節にはまだ早いし、今度里に下りた時に水羊羹でも買ってこようかしら?
実に暢気にそんな事を考えながら、霊夢は頬を伝う汗を手ぬぐいで拭い去った。
今日はいつにも増して暑いんじゃないだろうか?
彼女を襲う暑さにだんだんと苛立ちを感じ始めたのか、その動作が次第にゆっくりとしたものになっていく。
「あ~、やってられないわね。休憩にしましょ」
ついには箒にもたれ掛かって座り込んでしまった。
ここらで涼しい風でも吹いてくれればいいのだが、生憎と今日は風一つない見事な快晴だった。
神社に植えられた桜の木達はその青々とした葉を惜しげもなく日にさらし、
もたらされる暑ささえも受け入れて力強く色づいていた。
座り込んだ所で別に暑さはどうしようもない事に霊夢が気づいた時には、すでに彼女は汗まみれになっていた。
「ほんっと、あったま来るわねえ」
半眼になって不貞腐れる。氷水で冷やしていた手ぬぐいは、既に冷たさを失ってぬるくなってしまっていた。
今日も博麗神社に参拝客は居ない。
生活する上で霊夢は別段資金難と言うわけではないのだが、
やはり主だった収入が巫女としてではなく妖怪退治屋としてというのはどうにも本意ではなかった。
このままでは自分の祀っている神様も飢え死にしてしまうのではないだろうか、と。何となく考えてしまう。
「まぁ、巫女の私が食べていられるんだから平気よね」
変な所で自分を納得させているが、当人は至って真面目である。
ここまで来てようやく霊夢は自分が暑さにやられているのに気がついた。
とたんに先程までの苛立ちが蘇ってくる。
「暑い!」
不機嫌そうに大声を上げ暑気を払い立ち上がる。と、
彼女の視線の先、神社の入り口の方に男の姿を捉えた。
一体いつからそこに居たのだろうか?
整った顔立ちをした青年が、鳥居の下に立っていた。
感心しきりといった顔で神社の方を見ている。
その表情が霊夢にはどこか気の抜けきっている様に見えた。
少し髪がぼさぼさしているのが原因かもしれない。
服装はこちらではあまり見かけない青白いシャツと灰色のズボン。
脇に抱えた小汚い色をした大きなバッグが、彼にはよく似合っているように思える。
青年はしばらくキョロキョロと辺りを見回すと、のんびりとした足取りで境内へと入ってきた。
そして霊夢の直ぐ傍までやってくると、また辺りをキョロキョロと見回す。
ここまで近くに来たというのに挨拶すらない事に霊夢は少し憤りを感じたが、
それより彼が持つ小汚いバッグが妙に目を引き、そちらの方に意識を持っていかれていたのでそんなに気にしなかった。
小汚いバッグの中には、大きなスケッチブックが入っていた。
よくよく見てみれば彼のバッグは小汚さの原因は色々な色の染みであり、よく使い古されている証であった。
さらに良く見れば、バッグには筆入れやパレットの姿も確認する事ができた。
その辺りまで考えが巡り、彼は絵描きなのかと霊夢が思ったときだった。
「あぁ、ここはなんてボロいんだろう」
青年の口から聞き捨てならない言葉が出てきた。
この男はろくに挨拶もしないどころかわざわざ聞こえよがしに文句などをたれたのだ。
当然の事ながら霊夢はカンカンに怒った。
目の前に立って青年の顔を見上げると、鋭い口調で言葉を放つ。
「ちょっと、いきなり失礼じゃない!」
とたん、青年の顔がぎょっとした表情を浮かべ、その目が見開かれた。
丁度睨み合いの形になって、霊夢は彼の目が酷く綺麗な蒼い色をしている事に気がついた。
まるで空のように透き通った蒼だった。
「え?」
そんな瞳を持った青年は今、酷く困ったような表情を浮かべている。
当然、彼の目が蒼かろうが霊夢には関係なかったので、彼女は言葉を遠慮なく続けた。
「人に会っても挨拶すらせず、しかも住んでる場所を馬鹿にするとはどういう了見なのかしら!」
自分から挨拶しなかったのは棚に上げているが当人はまったく気にしていない。
霊夢は先程までの暑さももう引いたのか、今はその熱い視線を青年へと向けていた。
しばらくその一方的な睨み合いが続く。
口を開いたのは青年の方だった。
「居たの?」
「居たわよ!」
青年の物言いにますます霊夢の怒りが強まる。
失礼千番にも程がある。賽銭入れるだけじゃ許さないといった気配すらさせていた。が、
「いやあ、いきなり現れたもんだからびっくりしたよ」
この言葉に彼女の勘がピンと来た。
勘というモノは様々な経験を元に発露する人間の擬似的な予測能力であると、どこかの妖怪が言っていた気がするが、霊夢の勘はまさにその類の物だった。
この青年、振る舞い調子こそそこらの里の者にそっくりだが些か違う。
「いやまさか、神社が実はこんなに綺麗だったとはねえ」
青年が先程とは違った感想を述べる。この言葉で彼女は確信した。
彼は幻想郷の住人ではなかった。所謂外の世界の住人だったのである。
「これって所謂、異世界って奴なのかな?」
のんびりとした口調で青年が言う。
その言葉には気負いもなく、むしろ未知の物に触れる好奇の気持ちが感じられた。
「ええ、ここは幻想郷。人と妖怪が暮らす…そっちからすれば、異世界よ」
自分が声をかけたことで彼はあの境界を越えてしまったのだろう。
そんな事を考えながら霊夢は青年の問いに答えた。
青年はへぇとかほぉとか言いながら、感心した様子で辺りを見回している。
どうにも雰囲気のおかしな奴だった。
少なくとも自分の知っている外来人と言うものは、目の前で起こる不思議な出来事に対してもう少し動揺するものである。そうでなくとも大きく心を揺り動かされたりする物なのではないか。
自身の常識を覆すような出来事に対して、目の前の青年はあまりにも暢気だった。
「こりゃ驚いた」
全然驚いた気配もなく、青年が呟いた。
それから、霊夢は青年を座敷に上げると彼に茶を振舞った。
今時分は夏も近づく八十八夜と言うには少し過ぎているが、新茶の季節には違いない。
この季節に出すには少々不釣合いの熱いお茶を、しかし青年は美味しそうに飲む。
思ったよりも青年とは気が合うかもしれないと、なんとなく霊夢は思った。
「やあ、お茶が美味しい!」
青年が幸せそうな表情でお茶の熱が喉を抜ける感覚を楽しんでいる。
ゆるみきった頬からは、それ以外の感情は見受けられない。
(…もうちょっと、動揺とかしないのかしらね)
そんな事を考えながら、霊夢は青年の顔をまじまじと観察する。
少し日に焼けてはいるが、元は綺麗な白い肌をしているのだろう。
整った顔立ちと相まって、落ち着いた気配を感じさせる。
彼の佇まいもそれを強調しているようだった。
暢気に茶をすする青年からは、どこか老成した雰囲気すら感じられるのだ。
若さと老いの共存。この不思議な感覚はどこか彼女に似ているなと、霊夢はここに居ない妖怪の顔を浮かべる。
「幻想郷か…」
ふと、庭の方に視線を移して青年が呟く。
彼の蒼い目は、しかし庭ではなくどこか遠くを見ているようだった。
「帰りたいんだったら何時でも言いなさい。追っ払ってあげるから」
青年の挙動に霊夢はそんな言葉を投げかけた。
ここは場所的にも人材的にも幻想郷から出るのに苦労しない所である。
今回のような事故(霊夢はこれを事故だという事にした)は過去にも何度か経験している。
こうして促せば、大半の連中は元の世界へと帰っていった。
「帰る、か。まだいいかな」
青年の返事も、しかし霊夢にとっては耳新しい物でもない。
そう言って幻想郷に残る物もまた確かに少数ながら存在した。
そんな輩は大抵人里に下りそこでのんびりと過ごす。そうでない連中の事は大して気にならない。まぁ殆どの場合、妖怪に出会い恐れをなして帰ろうとする。
彼は、どうなのだろうか。
「もしかして、あんた紫?」
思わずそんな事を口走ってしまう。だが、青年の表情を見るまでも無く霊夢は首を横に振りそれを否定した。
冗談にしては陳腐だし、本気にする所でわざわざそんな事をする理由は無い。
それになにより、もし何かを試しているのだとしたら。
一発どつけば判るのだ。
「あいだっ!」
気づいた時には既に遅く、霊夢は青年の後頭部を強かに打ち付けていた。
思っていた事をついつい実行に移してしまったらしい。
恨めしそうな視線を受けて、流石に申し訳ない気持ちになった。
「あ、ごめん。何だか知り合いに似てて」
「知り合い? 君は知り合い相手に容赦が無いんだな」
頭をさすりながら青年が言う。彼の手元に置かれているバッグの掴みがぐしゃりと潰れていた。
ここに来て、霊夢はようやくある事に気がついた。
「そういえば、貴方名前は?」
「ああ」
ポン、と青年も手をついた。
そういえばお互いまともな挨拶を交わしていない。
いつもならそんな人間を座敷に上げるような真似はしない。
この青年は霊夢にそうさせてしまうほど、場に馴染んでしまっていた。
「なんていうか、ほら。初めて会った気がしないのよね」
「初対面さ。だってそう、君は幻想の生き物じゃないか」
「は?」
どこかで聞いたような言葉を、思わぬ所から耳にした。
「幻想郷に生きる生物は、皆幻想の生き物だろう?」
「あなた、実は霖之助さんだったのね」
「その人も幻想の生き物なのかい?」
「まぁそうね」
なるほど、と霊夢は心の中で大きく頷いた。
この青年の感性は、ともすればこの幻想郷の空気に合っているのかも知れない。
きっと外の世界では浮いていたに違いない。
「失礼な事考えてないかい?」
「考えを読むなんて失礼ね!」
「ああごめん。……あれ?」
違和感に気づいて顔を少し歪めた青年の顔は、不自然なくらい自然に見えた。
「それで…」
霊夢はまだまだ熱いお茶を一口すすってから切り出す。
「あなたのお名前なんじゃろな」
ちょっとおどけてしまったのは、青年への礼か。
自分は今笑ってしまっているなと霊夢は自覚する。
対する青年は、ふふんと鼻を軽く鳴らし笑みを作ると、
「川合真彦、一応、現役の学生にしてただの絵描きでございます」
そう言って手元のバッグを優しく撫でた。
「博麗霊夢、この博麗神社の巫女よ。よろしく真彦さん」
「よろしく霊夢」
言葉を交わした二人は、ほぼ同じ挙動で湯飲みを口に運ぶ。
静寂が、博麗神社に訪れた。
ちゅんちゅんと雀が鳴き、未だ暑さを忘れない陽の光が遠慮を知らぬまま大地に照りつける。
暑い暑い夏の気配は、確実にそこまでやって来ていた。
「…………」
真彦も霊夢も口を開く様子は無い。その瞬間はまだ先、遠くにある。
実にのんびりとした時間が、二人の暢気者の間を通り過ぎていった。
「あ、そうだ。言い忘れてたわ」
その言葉を霊夢が口にしたのは、静寂が降りてから実に十五分も経ってからだった。
「なんだい?」
破られた静寂に、真彦はさして気にした風も無く応じる。
彼の視線の先には、実に気の抜けた顔をした巫女が笑っていた。
「ようこそ、幻想郷へ」
そう言って改めて浮かべた笑顔。そこに真彦は、彼女の魅力を垣間見た気がした。
こうして青年は、幻想郷へと招かれたのである――。