私の家族は周りから見れば、ワケアリだ。
私には兄がいる。4つ離れた兄だ。
兄は母の連れ子だった。
私たちが知ったのは
私が小学5年生、弟が小学4年生の
冬頃であったのではないかと思う。
兄は既に知っていて、兄も小学5年生頃に
告げられたそうだ。
それまでは兄弟として何も知らずに
生きてきた。
なぜいきなりこの話になったのか。
多分、小学校で自分の名前の由来や
生まれた時の大きさなどを
書いて紹介するような授業があったのだ。
母子手帳を見ると、兄だけ見覚えない苗字。
父親の欄が違っていた。
それに気付いてしまったのだ。
そして、弟も気付いたのだろう。
1週間もしないうちに父親が私たちを呼んだ。
私と弟を座らせて、血が繋がってないことを
あっさり話したのだ。
私ははっきりと聞いた時、
聞いてはいけないようなことを聞いた気分だった。
辛かった。
父親はかなり厳しい人だった。
というか、DV・虐待がすごかったのだ。
父親自身は全くそうは思っていない。
しつけとしか思っておらず、
自分の思い通りにいかないと怒鳴る、殴るが
止まらない人だった。
虫の居所が悪いときは突然殴ることも
珍しくなかった。
そして母の教育が悪いと父は母を殴った。
物心ついたときにはすでにそういう状態だった。
母いわく、私を妊娠した時には
既にそうだったらしい。
しかし、連れ子の兄がいたし、
逃げれば殺されるかもという恐怖から、
別れることはなかった。
当時はただお父さんの機嫌を見て
顔色を伺って生きてきた。
育つにつれて私たちは
父が嫌いになっていった。
母は父のいないところで優しくしてくれた
本当にいい母親だった。
母親の愛情を私はわかっていた。
父から守るために私は頑張った。
怒らせないように、母の代わりに
色々と家事もした。
父の面倒を見たりした。
兄が高校生に進学し、思春期になると
私は兄から暴力を受けるようになった。
父が帰るまでは兄に殴られ
お使いを毎日頼まれた。
父が帰るまでに家事を
すべてしなければならなかった。
炊事、洗濯、風呂掃除、部屋の片付け。
学校の宿題。
学校で、毎週変わる班ごとの
掃除当番表なものを父が作り、
週替わりにやることが
決まっていた。
友達と遊びに行くのは
家に誰もおらず、見つからずに
出ていける日しかなかった。
子供の私たちには厳しすぎた。
出来ていなければ晩御飯を食べさせてもらえず、
正座させられていた。
母は朝から夜の20時頃までパートに
出ていたので帰ってきては父に逆らえず
機嫌の悪い父の機嫌取りをするしか無かった。
母なりに自分のいない時間に
父が子供を殴ったり何をするのかわからない
恐怖が常にあったのだ。
家にあったダイニングセットの椅子の足は
私たちを殴るのに使うと足が
すべて折れていったので、
最後には椅子がなくなった。
布団たたきで叩かれることが一番多かった。
布団たたきも何本も折れた。
布団たたきは細いのでかなり痛い。
だんだんと殴るものがなくなっていく。
次は何を出すのかとひやひやと
過ごしていた。
最終的には、押し入れにあった
バーベキューの足を出してきた。
パイプというのだろうか。
金属製の上等なもので、物干し竿ほどの太さだ。
私が小学4年頃だろうか。
それを出してきた時は殴られる前に
私は死んだと思った。
布団たたきのような肌が
燃え上がるような痛みではない。
音があまりしない上に鈍い痛さだ。
そんな日常も中学に入るとだんだんと変わる。
部活を始めると家にあまりいないので
父のイライラは減ったのだろうか。
しかし、兄とはやはりよくぶつかっていた。
兄もそんな父に負けずキレることもあった。
すると父は止まるはずがない。
割り込んで止めようが何をしようが
自分に逆らうものは許さないのだ。
兄は次第に引きこもるようになった。
弟は末っ子だった為、
父にも可愛がられていたように思う。
兄は連れ子であるため、
気に入らないことが多かった。
私は女だという理由から、
家事全般を命令され、
兄や弟が手伝ってくれなくても
父が帰るまでに家事をしなければ
私が怒られた。
弟がしないといけない家事も
私がするようになった。
手伝ってといっても手伝わない。
出来てなければ私が殴られる。
結局私がするしかなかったのだ。
弟はしなくても怒られることはなかった。
小さい頃は私と弟は一緒に殴られたが、
次第に兄弟で殴られる度合いは変わっていった。
兄の引きこもりは続き、
父の標的になっていた。
母は自分を責め、
兄には甘くしていた。
そんな兄は高校を卒業したあと、
就職したが、2、3ヶ月すると
仮病を使い仕事を休みがちになって
いつの間にか仕事をやめ、
また引きこもりを始めた。
それがしばらく続く。
何をしても仕事が、続かないのだ。
父もそれを見てまたさらに荒れる。
悪循環だ。
兄が20歳になると成人ということもあり、
兄を家から出した。
それは母と兄が2人で決めたようだ。
ある日、私が学校から帰ると
兄が荷物を取りに来ていた。
そして、仕事をしだしたから
給料が入ったら返すという約束で
お年玉を持っていった。
それが私が兄を見た最後の姿だ…
私と弟はお小遣いがなかったので
唯一お年玉だけは母方の祖父母と、
叔父叔母がくれた3000円ずつの
6000円だけだった。
親からはもらったことがない。
というか、かなりの貧困であった。
子供なりにそれもわかっていたので
わがままをいうことは無かった。
大人になってからわかったことが
沢山あった。
母が私が20歳をすぎてから、
色々と、当時のことを話してくれたので
たくさんのことが理解出来た。
母が働き出したのは父が作った
借金のせいだった。
いろんなことが交差して、
複雑な環境が混ざりあっていた。
普通ではない。
それだけはわかった。
私には兄がいる。4つ離れた兄だ。
兄は母の連れ子だった。
私たちが知ったのは
私が小学5年生、弟が小学4年生の
冬頃であったのではないかと思う。
兄は既に知っていて、兄も小学5年生頃に
告げられたそうだ。
それまでは兄弟として何も知らずに
生きてきた。
なぜいきなりこの話になったのか。
多分、小学校で自分の名前の由来や
生まれた時の大きさなどを
書いて紹介するような授業があったのだ。
母子手帳を見ると、兄だけ見覚えない苗字。
父親の欄が違っていた。
それに気付いてしまったのだ。
そして、弟も気付いたのだろう。
1週間もしないうちに父親が私たちを呼んだ。
私と弟を座らせて、血が繋がってないことを
あっさり話したのだ。
私ははっきりと聞いた時、
聞いてはいけないようなことを聞いた気分だった。
辛かった。
父親はかなり厳しい人だった。
というか、DV・虐待がすごかったのだ。
父親自身は全くそうは思っていない。
しつけとしか思っておらず、
自分の思い通りにいかないと怒鳴る、殴るが
止まらない人だった。
虫の居所が悪いときは突然殴ることも
珍しくなかった。
そして母の教育が悪いと父は母を殴った。
物心ついたときにはすでにそういう状態だった。
母いわく、私を妊娠した時には
既にそうだったらしい。
しかし、連れ子の兄がいたし、
逃げれば殺されるかもという恐怖から、
別れることはなかった。
当時はただお父さんの機嫌を見て
顔色を伺って生きてきた。
育つにつれて私たちは
父が嫌いになっていった。
母は父のいないところで優しくしてくれた
本当にいい母親だった。
母親の愛情を私はわかっていた。
父から守るために私は頑張った。
怒らせないように、母の代わりに
色々と家事もした。
父の面倒を見たりした。
兄が高校生に進学し、思春期になると
私は兄から暴力を受けるようになった。
父が帰るまでは兄に殴られ
お使いを毎日頼まれた。
父が帰るまでに家事を
すべてしなければならなかった。
炊事、洗濯、風呂掃除、部屋の片付け。
学校の宿題。
学校で、毎週変わる班ごとの
掃除当番表なものを父が作り、
週替わりにやることが
決まっていた。
友達と遊びに行くのは
家に誰もおらず、見つからずに
出ていける日しかなかった。
子供の私たちには厳しすぎた。
出来ていなければ晩御飯を食べさせてもらえず、
正座させられていた。
母は朝から夜の20時頃までパートに
出ていたので帰ってきては父に逆らえず
機嫌の悪い父の機嫌取りをするしか無かった。
母なりに自分のいない時間に
父が子供を殴ったり何をするのかわからない
恐怖が常にあったのだ。
家にあったダイニングセットの椅子の足は
私たちを殴るのに使うと足が
すべて折れていったので、
最後には椅子がなくなった。
布団たたきで叩かれることが一番多かった。
布団たたきも何本も折れた。
布団たたきは細いのでかなり痛い。
だんだんと殴るものがなくなっていく。
次は何を出すのかとひやひやと
過ごしていた。
最終的には、押し入れにあった
バーベキューの足を出してきた。
パイプというのだろうか。
金属製の上等なもので、物干し竿ほどの太さだ。
私が小学4年頃だろうか。
それを出してきた時は殴られる前に
私は死んだと思った。
布団たたきのような肌が
燃え上がるような痛みではない。
音があまりしない上に鈍い痛さだ。
そんな日常も中学に入るとだんだんと変わる。
部活を始めると家にあまりいないので
父のイライラは減ったのだろうか。
しかし、兄とはやはりよくぶつかっていた。
兄もそんな父に負けずキレることもあった。
すると父は止まるはずがない。
割り込んで止めようが何をしようが
自分に逆らうものは許さないのだ。
兄は次第に引きこもるようになった。
弟は末っ子だった為、
父にも可愛がられていたように思う。
兄は連れ子であるため、
気に入らないことが多かった。
私は女だという理由から、
家事全般を命令され、
兄や弟が手伝ってくれなくても
父が帰るまでに家事をしなければ
私が怒られた。
弟がしないといけない家事も
私がするようになった。
手伝ってといっても手伝わない。
出来てなければ私が殴られる。
結局私がするしかなかったのだ。
弟はしなくても怒られることはなかった。
小さい頃は私と弟は一緒に殴られたが、
次第に兄弟で殴られる度合いは変わっていった。
兄の引きこもりは続き、
父の標的になっていた。
母は自分を責め、
兄には甘くしていた。
そんな兄は高校を卒業したあと、
就職したが、2、3ヶ月すると
仮病を使い仕事を休みがちになって
いつの間にか仕事をやめ、
また引きこもりを始めた。
それがしばらく続く。
何をしても仕事が、続かないのだ。
父もそれを見てまたさらに荒れる。
悪循環だ。
兄が20歳になると成人ということもあり、
兄を家から出した。
それは母と兄が2人で決めたようだ。
ある日、私が学校から帰ると
兄が荷物を取りに来ていた。
そして、仕事をしだしたから
給料が入ったら返すという約束で
お年玉を持っていった。
それが私が兄を見た最後の姿だ…
私と弟はお小遣いがなかったので
唯一お年玉だけは母方の祖父母と、
叔父叔母がくれた3000円ずつの
6000円だけだった。
親からはもらったことがない。
というか、かなりの貧困であった。
子供なりにそれもわかっていたので
わがままをいうことは無かった。
大人になってからわかったことが
沢山あった。
母が私が20歳をすぎてから、
色々と、当時のことを話してくれたので
たくさんのことが理解出来た。
母が働き出したのは父が作った
借金のせいだった。
いろんなことが交差して、
複雑な環境が混ざりあっていた。
普通ではない。
それだけはわかった。