今年最初のアート鑑賞は


東京国立近代美術館で開催中の

ウィリアム・ケントリッジ
「歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……」


昨年京都の近美でまさかの時間切れで最後まで観れなかったため

けっこう前から楽しみにしていた展覧会。

今回は少し時間に余裕を持って鑑賞したけど、それでも閉館ギリギリ。

最低3時間はみておいたほうがいいかも?!


時間切れとはいえ、大半は一度は観ている作品にもかかわらず

はじめてみたような感動が。

力強いドローイングをコマ撮りした独自の手描きアニメーションは見どころ。

南アフリカ出身ゆえ、自国のアパルトヘイトや戦争問題などがテーマの

核としているものの、その奥には個人的な感情が見えるところが

なんとなくほろっとくる。


オペラ(ショスタコーヴィチ)、初期映画(ジョルジュ・メリエス)、人形劇、

影絵芝居、2枚の絵が装置を使うと3Dに見える作品など、バラエティ

豊かな展示は見ていて飽きない。

見ごたえたっぷりの展示。


作品の動画はこちら。









do you like me?-tabaimo 横浜美術館で今日から開催の束芋展へ。

残念ながら記者会見は見逃した。


まとまったカタチで彼女の展示を

見るのは初めて。

今回の展示は6点の

映像インスタレーション全て新作。


おもしろい!








展示のタイトルである、『断面の世代』とは

「団塊の世代」に対して、束芋の世代

(大雑把に1970年代生まれ)の

人々のことだそうだ。



右へ倣えの、大きな塊になることによって世の中を大きく動かし、

後世にも影響を与えた世代に対し、束芋世代は個に執着し、

どんな小さな差異にも丁寧にスポットライトをあてる。

大きな塊の中の一点として自分の存在意義を見出し、その大きな

塊の成した功績を自分のものとして感じるよりも、彼女たちは一つの

存在としての機能の功績を重んじる、とのこと。


日常の何気ない対象物が彼女の独特の視点や表現によって、

新たなものへと変えられる。

足から無数の指が生えていたり、かわいらしい取っ手がついた

タンスから伸びる生生しい足やまとわりつく長い髪。


Blowという映像インスタレーションが特にお気に入り。


くねりと曲がった脊椎に筋肉とも髪の毛とも区別がつかないものが

絡みつき、足元にあぶくをつくりながらくねくねと泳いでいる。

やがてそれは水面に上がると花をさかす・・・

観る者は作品の中に入り込めるようなつくりになっており、

まるで自分も水面下にいるような、あるいはその一連の動きを

俯瞰しているような感覚になる。


個の内側から外に向けて発散されるものを表現したい。

血肉のような物質的なものも、愛憎や憎しみのような不可視のものも、

個という袋に閉じ込められたものが外に放出されるとき、

閉じ込められていたときとは違った形に変化し、成長していく。

空気や光に触れ、水が与えられ、周囲との関係の中で刻々と

変化していく植物に例え、美しさだけでなく、艶やかしさや

毒々しさも表現する作品となることを期待している。


とは作家のコトバ。


私たちの心の奥深くにブラックホールに放り込まれた

コトバでは表現できないような感情、あるいは表現しては

いけないような感情があるきっかけで噴出し、

それが徐々にカタチあるものに変化していく様を

眺めているようでもあった。不思議な感覚、浮遊感・・


彼女の作品を見ていると作品に吸い込まれて

取り込まれてしまうような、あるいは作品に

積極的に入っていくことを選択しているのか

そんなかんじがした。


束芋の作品を見ているとアネット・メサジェや

鴻池朋子の展示をみたときのように、

カラダの内臓をぐわっと鷲掴みされたような、

なにかズキンとくる衝撃を受ける。

血生臭さが漂っているような。


自分の内面の奥深いところに響きそうな展覧会であった。


また観にいきたいです。


おみやげにもらった展覧会カタログがかっこよかった。



あることがきっかけで

ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだ。


小さい頃、大好きだった本だけど

オトナになったいま、読み返してみると

考えさせらることがたくさんだ。


いつしか円形劇場の跡に風変わりな格好をした、モモという名前の女の子が住み着きます。

なにひとつかわったことができるわけでもないのですが、

ただひとつ、ひとの話を黙ってじーっと聞くことができました。

心配事やもめごとを彼女に聞いてもらうだけで、

町の人々は幸せな気持ちになることができたのです。

そこへある日、「灰色の男」たちが現れます。

彼らはしゃれた車に乗り、たくさんのおもちゃをみせびらかしにやってきます。

彼らは言葉巧みに、人々に対して、時間が大切であることを説き、時間を節約し、

余った分を貯金をすることをすすめます。

いらない時間はどんどんきりつめなさい、

そのたびに時間が貯えられていくのですから、と。

趣味に時間をついやすのはむだ。

夜眠る前に窓から星を眺めるなんて無駄の極致。

友達とおしゃべりする暇があったら、

その時間を節約して貯えたほうがよほどためになる。

いつしか町の人々は言いくるめられてしまいます。

けれどその、きりつめた時間は、無駄に見えても心の栄養のためになくてはならない時間でした。

「たのしいと思うこと、夢中になること、ゆめ見ること」がなくなってしまった人々の生活は、

ただただ忙しく、せわしなく、どこかとげとげした雰囲気が町じゅうを覆いはじめます。

そしてモモは町の人々が奪い取られた「時間」を取り戻しに行く。


というお話。


日々の「やるべきこと」に忙殺される私たち現代人。

なにか意味のあることをしていないと、何だか後ろめたい気分になったり。

予定表を見て、予定が埋まっていないと不安になったり。

あいている時間をいかに有効に使うか、が充実した生活をおくれる、とか

なんとなく躍起になっている勝間さん支持者は私はニガテです。


人生を無駄に使うくらいの時間があってもいいじゃないか。

そしてその無駄使いにつきあってくれる人はかけがえのない存在だとおもう。

それくらいの余裕をもっていないと、時間泥棒に時間を取られちゃうよ、

ということにあらためて気づかされました。


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