『未完』

未完という言葉は、どうしてこれほどまで人を惹きつけるのだろう。

未完の建築
未完の長編小説
未完の音楽

作者がいなくなったとき
それを必ず別の人が完成させようと奮闘する。
でも、人が求めるのは
完成した、完璧なものではないのかもしれない。

人は完成をどこまでも追いかけ、
しかしそれを満足に掴むことはない。
「完成した」ともし言えるのなら
それは妥協だと思う。
本番という名の、提出という名、発表という名の、締切があるから、妥協がある。
妥協があるから、次に進める。

結局、完成をどこまでも追いかけているその姿がその人を表すようになるんだと思う。

  映画や舞台作品は、主人公の人生を部分的に切り取ったものである。
人の人生を2時間やそこらで全て描くのは無理だ。
だから、そこに描かれていないことを
観る者は想像することを楽しみ、
監督や演出家は想像させる構成を考える。

私が映画や舞台を観た時に余韻に浸るのがすきなのは、想像の余地があるから。
それは、未完に魅力を感じているからかもしれない。

人間の人間たる能力に「想像力」があると思う。
そこを刺激し、よりエキサイティングな人生を観る人に届ける力。
今自分が演劇という芸術に求めるのは、そこだ。

常に「更新していく」という感覚を忘れないでいたい。
それは、作品に対しても、自分自身に対しても。




認知症の父は、
完成に向かっているというより後退しているのか。
今までできていたことが出来なくなっていくということ。

会話ができるということ、ごはんが食べれるということ、トイレに行けるということ、面白いものに笑うということ。それを当たり前だと思っている(完璧に近づく)から、「できない」という言葉が出てくるんだろうな。
未完の父の魅力を受け入れる。
そこにヒントがあるかもしれない。