鳥取市国府町岡益にある「長通寺」

寺名:長通寺(ちょうつうじ)
住所:鳥取県鳥取市国府町岡益285
山号:聿来山 
宗派:曹洞宗
開山:田山宗養 
開創:1615年 
本尊:釈迦牟尼、如意輪観音
その他
1)八百谷冷泉襖絵:<大波涛>16面、<三徳山投入堂>など



この寺にある八百谷冷泉が描いた長通寺の襖絵は有名です。

八百谷冷泉は鳥取市職人町出身の画家で、京都で円山春挙に師事し、「円山応挙の写生風に近代画風を取り入れた独特の画風」を生み出したのだとか。

中央画壇で活躍をしていたのですが、戦時疎開でこの地にきてから長く居つき、住職や檀家の方々から受けた温かい思いやりに感謝してこの襖絵を残したのだそうです。



境内には、志賀直哉来訪の記念碑があります。

昭和31年にこの地を訪た志賀直哉は、岡益の地を賞賛して色紙に「妙」の一字を残したということです。

本堂に入ると、須弥檀中央に「如意輪観音」が鎮座しておられます。

また、この寺には「安徳天皇」と平家一門の位牌が祀られているそうです。

第八十一代天皇の安徳帝は平清盛の孫に当たり、壇ノ浦の戦いの際、平家とともに海中に召されたとされています。
しかし、「安徳帝は生きていた」説が全国30ヶ所以上にあり、ここ岡益にもその言い伝えが残っています。



なお、大日本帝国時代には「安徳帝は生きていた」説が正史とされており、「新撰大日本帝国史」には「壇ノ浦ノ戦イニ海ニ没セサルハ容貌天皇ニ似タルモノトシ天皇ハ潜ニ隠岐ニ遁シ玉ヘリ ~云々~ 」とあります。


岡益に伝わる安徳帝生存伝説は、以下の通りです。

壇ノ浦で安徳帝として入水したのは安徳帝に似た幼児であり、安徳帝の座乗する船は越中次郎兵衛(平盛継)上総五郎兵衛(平忠光)飛騨四郎兵衛(平景俊)悪七兵衛(平景清)らとともに対馬に着きました。
(余談ですが、東伯郡湯梨浜町引地にある伯耆観音札第二十七番「九品山大伝寺」に悪七兵衛の慰霊塔があります)

その後、唐土高麗に渡ろうとしたのですが、海流に流されて漂流し、隠岐島岩崎に漂着したのです。

そして、激しい風波によって伯耆国に流されたのち、海路東に向かいます。
ところが、因幡国賀露沖で大嵐に遭い、転覆の恐れからやむなく上陸します。

上陸した安徳帝一行は途方に暮れ、平盛次(盛継)が通りがかりの僧に尋ねました。

「・・・ここは、どこの浦や?」

「因州賀露ですいな。」

京が恋しい一行は、一層落胆します。
平盛次は態度を丁寧にして、宗源と名乗るこの僧に今後の世話を頼みました。

「我々は主人を伴うて船中にて艱難に遭うたものの、この浦に漂着して、かろうじて命拾いしたとこでおじゃる。着いたはヨロシが、ここが何所なんかもわかりしまへん。そもそも、何所を目指しているのかもわからんのでおす。」

盛次は、寂しそうに続けます。

「和尚はん、世を憚る方を連れてのことにおじゃる。貴僧の仁義におすがりして、なんとか良い隠遁の地を世話してもらえないやろか?」

宗源はまじまじと見て応えます。

「貴殿方がどこの國の方々かは存じませぬが、まことに痛々しゅう存じまする。故に、賎なき拙僧の草庵なれどひと時のご休息をお取りなされ。」

ということで、宗源は安徳帝一行を岡益の光良院(現在の長通寺)へ連れて行き、しばらくの間は平和な日々が続きました。

ところがある日、兵馬の音が聞こえてきたことで、源氏方の追っ手が来たことを悟ります。慌てた盛次はまた、宗源住職に頼みます。

「住職殿。どこか良い洞窟なんかはおじゃらぬかの・・・」

「ああ。洞窟じゃあ無いですけど、この山奥に瓢箪山っちゅう、ものごっつう良ぇ処があっですけぇ、いま案内しますけ。」

宗源住職の案内に従って瓢箪山に着くと、そこは隠れ家としてとても良い所でした。
安徳帝ご一行は早速御殿を造営し、そこに移って長い間の平穏な時を過ごされました。

そして、すっかり落ち着いた文治三年秋の八月十三日(現代暦の九月)。

「ミカド。住民の噂によりますれば、どうやら法美郡の大草郷荒舟村に、秋の景色美しい処がおじゃるとの話におじゃりましゅる。」
と聞き、
「それは見てみたいなぁ」
と、久しぶりに皆が揃って遠足気分で外出された折です。

突然安徳帝がお倒れになり、そのまま、妻となったばかりの幼い姫の膝の上で御崩御なされました。

臣下一同悲しみに暮れる中、安徳帝の亡き骸は光良院に弔われ、寺内に埋葬したということです。
これが現在に残る「岡益の石堂」であるという言い伝えが残っています

安徳帝激動のご生涯はわずか10年でした。


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