This is a story of a man just starting up his life, coming out of a small village in the deep forest of Fukuoka Prefecture at age 18, born in 1951 as one of paternal twins.
How would I start the story,,,,,
さて、高校を卒業した僕は、一体自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、まるでイメージを描けないまま、とりあえず羽田空港の地上サービススタッフとして就職上京した。そこで、9ヶ月の寮生活をするわけですが、このときは特に取り立てて書くような面白い話はない。ただここで働いている時に、アルバイトで来ていた大学生から耳寄りな話を聞き、それを契機に色んなことが動き始めた。その話とは、当時の僕の給料は2万3千円だったが、遠洋航海の鮪船に乗り込むと、悪くても手取り100万円位になる、といった情報でした。兎に角そのときの僕の唯一の夢は海外旅行をすることだったから、これは願ってもないチャンスなわけ。それで、その説明会に情報をくれた大学生とともに12月のある日清水港まで行ったわけ。概要としては一航海が大体6ヶ月くらい、収入は水揚げ時の鮪の相場によるので、一概に約束できないが、前回の航海で新人が手にした金額は102万円、そんなことを聞かされて、もう居ても立っても居られなくなり、東京に帰り着き次第空港の会社(AGS、今でもある)に辞表を提出、1月20日の出航に間に合わせるべく引越しや(といっても大した持ち物はほとんどなかったが)なにやかやと、慌ただしく年明けを迎えたものでした。清水には1月8日に引越し、とりあえず支度金3万円を支給され、船員用のタコ部屋に寝泊りし、出航までの準備を始めた。実際の出航はエンジン関係のトラブルがあったりして2月1日に延期されたんだが、それまでの約1ヶ月はほんとーにわくわくする日々で、自分の人生の中でもかなり高揚した気分を一番長期間味わった時だと思う。
清水でのタコ部屋生活は結構楽しいものでした。今回乗船する先輩船乗り5人、僕と同様の新米4人、最終的に10人の共同生活が結局半月以上続くことになった。当時の初任給が2万3千円と前に書いたけど、3万円をもらって、更に船中での生活用品を買うようにと2万円を渡され、合計5万円は1970年の時点では相当使いでがあったのです。5人の先輩の4人までが沖縄出身者、新米は1人が沖縄、一人長崎、一人が名古屋、2人が大阪、1人は岡山、一人焼津、一人清水、そしてもう一人がどこあろう(ノブやんト同じ)中津の人間だった。しかも歯医者の一人息子。ただ彼は出航直前にきたので、タコ部屋ではほとんど一緒にはならなかった。後々知ったことだが、この出航前の期間に皆は一航海で必要な生活物資を買って乗り込むわけだが、そのために渡されたお金なんだが、最初に一緒につるむようになった「水公」(長崎出身者)と僕はそんなことがそれ程重要とは思えず、長い航海になれば当分味わえない食べ物や、遊びに興じる毎日でした。水公は21歳、僕は19歳、他の新米は24歳以上。船の中では新米が名前で呼ばれることは先ずなく、我々10人全員にあだ名がつけられていて、水公が何故そう呼ばれるようになったのか、もうはっきりと記憶にない。彼は確か最初その容貌から「うらなり」と呼ばれていたが、いつの頃からか水公に変わっていた。これは良くあることで、因みに僕の場合、最初は羽田(なぜならそこで働いていたから)、途中からJumboと呼ばれるようになった。その年日本に初めてジャンボジェットなるものが羽田に飛来して来た年で、そんな飛行機を見たのが船の中では僕だけだったということと、全体の新米の中では僕は大柄のほうだったからです。水公と僕は年も違わず、動機も似ていたので何となく一番話しやすく、いつも二人で清水の町を徘徊していた。この時僕は初めて、当時の言葉で、「トルコ」なる場所へ連れて行かれ(Excuse me, ladies!)、船乗りの生活の入り口に立った実感を持ったものでした。しかし、前渡金としてもらっていたお金は実はもっと大事な生活必需品、下着とか石鹸とか歯磨き、歯ブラシとかその他の着替え、また漁に必要な長靴や手袋、作業着などを買っておかなければいけなかったのだが、それを知ったのはいよいよ出航というその日の数時間前、ほとんど使い切ったお金ではとてもそんな必需品は買いきれないので、仕方なくもう1万円前借し、とりあえず最小限のものを買い集めようやく出航に間に合った次第。さて2月1日は季節風の吹く寒い日だったが午前10時30分に時間どおり出航。まるで映画で観るようなテープを投げて互いに別れを惜しむ家族のやり取りに、僕の心もちょっとしんみり、最早引返しは出来ないんだという事実に突然初めて不安な気持ちが湧き上がってきた。
3. 清水港を船はいよいよ出港しました。特に清水港には知り合いのない僕は皆がテープを懐かしそうに握り合ってる光景に多少のうらやましさを感じながら、でもこれから自分の旅(そう、これは僕の気持ちの中では仕事に行くのではなく、旅立ちだったのです)へ出るという意識で少し高揚していました。そんな多少感傷的な面持ちで甲板から遠ざかる岸辺を見つめていると、横に来た機関長が突然、「おい、羽田!(僕の当時のあだ名)みどりちゃんがおまえに手を振ってるぞー、はよー振り返してやらんかー!」と僕に大声で怒鳴り始めた。みどりちゃんなんて知り合いが何でこんな清水にいなきゃーいけないんだよーと思いながら、「機関長、俺にはそんな知り合い居ないですよー?!」と言い返した途端、そのみどりちゃんが僕の視界に飛び込んできて、思わず顔を赤らめてしまった。そんな僕をニヤニヤからかい顔で見つめながら機関長は「何でわしがそんなコツを知っちょうんじゃろうか、と思うちょるんじゃろー、おのれは。いいか、よー覚えちょけよ、わしはおのれのこつは何でも見通しじゃー、ワシに嘘はつけのじゃー」といって、更にニヤニヤするのだった。そんな言葉を自分の中で咀嚼していた時、再度みどりちゃんの顔を見つめなおしてみると本当に僕に向かって手を振ってくれているのが分かったとき、突然僕はどうしようもなく心が切なくなって、なんだか説明のつかない感傷に襲われた。それは淡い恋心にも似た感傷でした。半年後に船が帰って来たときにはまた会いたいなーという思いに捉われたということは、いまにして思えば、これが営業のエッセンスなんだろうが、その時はそんな発想はまるで生まれなかったな。ところで、一体マグロ船というものはどんなものか少しその概要を説明しておきます。これから始まるドラマ(?)の舞台とも言える大事な場になるわけですから。
乗った船の大きさは1800トン、と言ってもぴんとこないと思うけど、400mトラックでは直線が100mあるが、船の全長は76メートルだったから、その直線の4分の3位あったと言うことで想像してみてください。通常のマグロ船はその半分もあればいいほうなんだけど、第18盛秋丸は大型遠洋延縄漁船の最後の生き残りで、その船上に4隻のキャッチャーボートを搭載できる仕様になっていました。ただし、僕の航海ではキャッチャーボートは2隻しか積んでいませんでした。そして、この航海が実は第18盛秋丸の最後の航海になるのはもう決まっていたのでした。それまでの乱獲がたたって、もう大掛かりな規模でのマグロ漁は採算が取れない状況にその当時既になっていたのでした。乗組員は全部で丁度50人、内僕のような全くの新人甲板員が8人、板前の新米弟子が一人、そして沖縄水産高校出身の戸口もこの航海が初めてのプロとしての航海だったから、一応新米扱いと言うことで、船の社会の中での位置付け、新米かベテランかということで言えば10人が新米で40人がベテランという色分けになっていた。後々ここが重要になってきます。通常船の長は船長ですが、漁船の場合最終意思決定者は船長ではなく漁労長になる。船長は位置的には2番目。3番目は「チョッサー」(英語の"Chief Officer"がなまったもの)次に機関長、冷凍長、甲板長、と続き、いわゆる役付きが10人位。冷凍長の位置が以外と高いのは、何ヶ月もマグロを漁して回るわけだから、当然それを船倉の冷凍庫に貯めていくわけで、だからその商品の管理部長としての冷凍長の位置は結構大切なわけ。76メートルの船の半分はこの冷凍庫といっていい。中はマイナス20度に保たれます。この船倉が一杯になって初めて航海が終わるわけで、出航前に聞かされていたところでは期間は約6-8ヶ月、でも終わってみれば実際は10ヶ月もかかったのでした。ちょっと前置きが長くなりましたね。いよいよ船は右後ろに白い富士
山を眺めながら遠州灘を西南西に向けて航海を始めました。