今日は五条京阪から東に行って、

大黒町通りを北へキョロキョロしながら歩きました。


 松原通の手前西側に寿延寺というお寺がありました。


寿延寺


 「このお寺には何が有るのかなぁ~?」


 「さっそく中に入ってみよう!」




寿延寺1


「長い路地の奥に本堂があるんだなぁ~。」と思って、


歩いていると、


 声 「ちょっと、そこの貴方!」


 私 「エッ!」


 声 「貴方の心と身体は汚れていますね!」


 私 「誰だ!俺の素性を知っているのは!?」


と声のする方を見ると、



洗い地蔵


身体を水で濡らしたお地蔵さんがいました。


 私 「お地蔵さん!ビショ濡れですよ!」


 お地蔵さん 「そうだよ!私が良いことを教えてあげましょう!」


 私 「何をビショ濡れで良い事を教えてくれるんですか?」


 お地蔵さん 「私に水を掛けて身体の悪い部分を


          たわしでこすりなさい!」


私はお地蔵さんの言われるままお地蔵さんに水を掛けて、

心の部分をたわしでこすりました。


すると、何だかスッキリしたような気になりました。



 そうです、このお地蔵さんは『洗い地蔵』と呼ばれていて、

正しくは『浄行菩薩(ぼさつ)』といい、釈迦の弟子の四菩薩の一人です。


水の徳をもって一切の苦しみを洗い清めてくれるとされていて、

このお地蔵さんに水をかけ、体の悪い部分をたわしでこすると

治るといわれています。


洗い地蔵のそばには“水五訓”が書いてありました。


 水五訓


1、自ら活動して他を動かしむるは水なり


1、常に己の進路を求めて止まず而(しこう)して尚
  方円の器に従うは水なり


1、自ら清くして他の汚水を洗い清濁併せ
  容(い)るるの雅量(がりょう)あるは水なり


1、障害にあい激しく勢力を増し世に光明を
  与えて尚報いを求めざるは水なり


1、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり
  雲となり雨となり雪と変じ霧と化し
  凝っては玲瓏(れいろう)なる鏡となり、
  而してその性を失わざるは水なり


 この洗い地蔵がある寿延寺は江戸時代中期に創建されたそうで、

以前は『十禅の森』と呼ばれる森があり、

弁慶が牛若丸の家来になる盟約を結んだ地でもあるそうです。



寿延寺本堂


本堂には釈迦如来と多宝如来が祀ってあり、
日蓮上人,四大菩薩,四天王,その左側に鬼子母尊神,
右側に油涌大黒天を祀ってあります。


山門を入った所には大黒堂があります。


大黒堂


それで、表通りを大黒町通りといいます。


 身体に悪い所がある方は一度“洗い地蔵”さんに


水を掛けて洗い清めて貰っては如何でしょうか?

 昔、六道珍皇寺の門前に一軒の飴屋がありました。


ある夜、表の戸を叩く音がしたので、飴屋の主人が出ました。


 主人 「こんな時間に誰だ~?」


すると、青白い女が一人いました。


 女 「夜分にすみません、飴を一つ売ってください。」


と一文銭を出して言いました。


そして次の日も、また次の日も一文銭を出して飴を買っていきました。


それが六日間続きました。


 主人 「あの女はただ者ではない!」


     「明日、銭持って来たら人間やけど、

     持ってこなんだら人間やないで~!」


 女房 「何でですのん?」


 主人 「人間、死んだ時はなぁ~、六文銭を三途の川の渡し銭として、

     棺桶に入れるやろ~!」


     「その六文銭を持って来たんやと思う。」


 女房 「そうか~!、六文使ったから明日は銭無いんやね!」


そして、七日めも女はやって来ました。


 女 「実は今日はお金がありませんが、飴を一つ頂けませんでしょうか?」


 主人 「よろしいですよ~」


と、主人は女に飴を与えて、帰って行く女の後をつけました。


すると、女は二年坂、三年坂を越えて高台寺の草原に入って行きました。


そして、一つの塔婆の前でかき消すように消えました。


 主人 「この墓で消えたなぁ~!」


主人が墓を掘ってみると、赤ん坊を抱えた女が死んでいました。


赤ん坊はこの女の一念で飴で育てられていたのでした。


(お腹に子を宿して死んで行ったんですねぇ~!)


この子は飴屋が引き取り育てて、

後に高台寺の坊さんになったそうです。


 (これと似た話を4月30日のブログ で書きましたね!)


 母親の一念で一文銭を持ってアメを買うてきて、子どもを育てていた。


それもそのはず、場所が『コオダイジ(子を大事=高台寺)』でした。


(米朝ばなし『上方落語地図』参考)



 日本各地に子を宿して死んだ女が飴屋に飴を買いに行って、

赤ん坊を育てたと言う話が沢山あるんでしょうね。


でも、今現在でもこの飴屋が存在するんですよ!!


飴屋


この飴屋さんは『幽霊子育飴本舗みなとや』です。


以前ブログに書いた『六道の辻地蔵』の斜め向かいにあります。


この世とあの世の境目の魔界ゾーンにありました。


何も知らないで、“幽霊子育飴”と書いてあるのを見たら、


ドキッ!っとしますよねぇ~!



子育飴

子育飴中身

この飴の中に“幽霊子育飴”の由来が書いてありました。


原材料は麦芽糖(水飴)と砂糖だけで作られていて、

何か懐かしい味がしました。


お店の中には幽霊子育飴の他にも色んなグッズが置いてありました。


飴屋1

京都にはこんな飴屋さんがあったんですねぇ~!


歩いて見て回らないとわかりませんねぇ~!


 今では、ほとんど火葬だから子を宿して死んだ女が

飴を買いに来る事はないでしょうね!?

 今日は四条河原町から寺町通りに向かって、

キョロキョロして歩きました。


 新京極の信号機の南側に沢山の提灯が架かっている

社殿がありました。


 「よく歩いてる道だが、ここは何の社殿かなぁ~?」



冠者殿社1



 時は平安時代末期、源頼朝は源義経に対しての

仕打ちを強めていきました。


 義経は後白河法皇から与えられた伊予の国も、

頼朝によって追い出され、唯一の所領も失ってしまいました。


それで、京都の堀川に屋敷を構えて暮らしていました。


それを知った頼朝は家来の土佐坊昌俊に義経追討を命じ、

文治元年(1185)、上京させました。


 昌俊は怪しまれぬように、まず堀川邸に義経を訪ねました。


 

 昌俊 「義経様、ちょっと所用で都へ参りました。」


 義経 「所用の目的は何じゃ!」


 昌俊 「熊野詣で御座います!」


 義経 「頼朝に命じられて私を討ちに来たのではないのか?」


 昌俊 「とんでも御座いません!信じて下さい!」


 義経 「本当だな!?」


 昌俊 「そこまでお疑いならば、起請文を書きましょう。」


昌俊は持っていた熊野の牛王の誓紙7枚に


 『この度の上洛は熊野詣のためで、討っ手としてではない』


と書いて誓いをたてました。


そして、三枚は八幡宮に、一枚は熊野に収める事にして、
残りの三枚をその場で焼いて、その灰を飲み込みました。


 義経 「よし判った!、信じよう!!」


こうして義経は昌俊の熊野詣を信じて帰しました。


 

 昌俊は怪しまれぬうちに義経を討とうと、

宿所に帰るとすぐに支度をして、

大急ぎで義経の屋敷に夜討ちをかけに行きました。


 義経は昌俊の言葉を信じて、家来を帰していましたので、

数名の家来しかいませんでした。


しかし、残っていた喜三太、三郎、次郎、義久らが応戦しているうちに、

騒ぎを聞きつけた弁慶や義経の叔父の源行家も

家来を引き連れて加勢に入り昌俊を取り押さえました。


 義経 「昌俊め、誓いを立てておきながら

      舌の根も乾かぬうちに夜討ちをかけおって!!」


深く傷ついた義経は、六条河原にて

自らの手で昌俊を斬首しました。


その時、最期に臨んで昌俊は


 『忠義のために偽りの誓約をする者の罪を救ってほしい』


と願ったそうです。

     


 この時代背景を考えると、頼朝の命令を断れば

昌俊は義経の味方とみなされ、殺されていたでしょう。

昌俊の生きる道は『嘘の誓約』をしてでも義経を討って、

手柄をたてて頼朝に仕えるしかな無かったんですねぇ~!


 昌俊の慰霊のために創祀されたのが

この冠者殿社(かんじゃでんしゃ)です。


冠者殿社2

 土佐坊昌俊が忠義の為にやむなく嘘をついたことを

許してあげようと建てられました。


それで、この事から冠者殿社には『起請返し』、

『誓文払い』の信仰が生まれたそうです。


毎年10月20日に、商売人が商売上のかけ引きでの嘘を

祓い清めて貰う為の参詣が行われるようになりました。


それが恋や愛の嘘も清められる神様となって行きました。


幕末の頃の花街の遊女達は馴染みのお客に、

愛の証として『偽りの恋文』を渡していました。


この遊女達も嘘を祓い清めて貰う為に参詣を行うようになりました。


この参詣は一切無言で行わなければ願いは破れるそうで、
『無言詣』と呼ばれるようになっていきました。



 「へぇ~!ついた嘘を祓い清めてくれるんだぁ~!」


 「長い人生、沢山の嘘をついてきたかなぁ~!?」


 「許してもらえるんだったら、祓い清めて貰おう!!」


皆さんは嘘をついたことがありませんか?


一度、嘘を祓い清めて貰っては如何でしょうか!?