曽祖母の介護施設と昔の比較 | なりの日記

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看護師です。阪神大震災後からゆるりクリニックで働いてきてます。第二子妊娠により休職中で子育て真っ最中です。

6年前の娘が産まれて一ヶ月半のころに娘の曽祖母は亡くなりました。


曽祖母の娘である義叔母が施設に預けている状況や受けているサービスに不安を感じた時があったんですが、最後にいた施設のサービスをはためで見ていてとても良いなと私の目には写っていたので何故なのかを説明したことがあります。


叔母には施設に不満がありました。その施設が2軒目ですが、紹介の縁があって新しいところに入所できたのですが前の施設があまり良くなかったので新しい場所への不安を解消しようとしました。


理想ばかり、綺麗事ばかりでは運営なんて出来ないのだろうけど、人権の配慮のない拘束帯の使用や胃管、胃瘻の造設が極力されず、ぎりぎりの範囲で生活の質を良く保ってくれるところというのはかなり丁寧な印象です。


私が准看護師学生だった30年近く前のころにはあまり老人ホームがありませんでした。病院も療養型病床群というものがあったのでそれぞれ大規模病院にも慢性期病棟というものがありました。

そこにはたくさんの社会的入院という理由での入院があり、そこで介護の手助けが少しされていました。

在宅訪問看護も往診もありましたが、クリニックが両方を担っていて、介護保険などの存在も出始めていたくらいの頃なので、今のように訪問介護ヘルパーの利用なども全ての人にいきわたっていたわけでもなくすべてキーパーソンである家族に負担がかかっていたのです。


介護というものに期限がありません。


いつまで続くかわからないもの。


負担は相当だっただろうなと思います。


今はというとそれぞれに介護保険というものがあり、要介護認定というものに認定をもらえたらホームヘルパーや訪問看護の利用ができたり入院や施設入所の対象も一時期では要介護3以上の人なら入所が検討できました。


曽祖母は要介護5での入所でした。


重度の認知症があり、徘徊、昼夜逆転、被害妄想などでかなり家族は疲弊していたころに転倒したことで大腿部頸部骨折となり入院。そこでさらに認知度がさがり施設入所の対象となったのでした。


わたしはその施設入所となったあとに嫁いできたのでそれまでの苦悩は経験していません。


施設での暴力事件でヘルパー逮捕のニュースにたいして手を挙げたくなる衝動というものは分かるというような言葉を聞いたとき、

相当辛い日々だったんだなと悟りました。


介護施設には毎日食事介助に叔母と出かけていました。着替えも持ち帰りで、洗濯してはまたすぐ汚れだらけで帰ってきます施設に入ったとはいえ大変さは続きます。


介護ということが始まって6年頑張ったそうですが、いつまで続くかわからず、初めにいた施設ではかなり放置されてる時間があったから毎日心配で見に行っていたそうなのです。

施設内も奇声を上げてる人たちが3人ほど。家族の同意のもとで片手の拘束帯を巻いていたり、

スタッフの人数が最近かなり減ったから仕方なくという話でしたが、やな光景でした。


それをみた時、初めに説明した30年前の病棟の一角を思い出しました。


3人どころじゃないたくさんの人の

助けてーー

きゃーーーわーーーー

こわいーーー

といううめき声。


当時高校生の私はあの病棟入るのが辛かったです


言い方悪い動物園のような。



匂いもすごいしポータブルトイレ設置してるトイレの中身をほとんど変えてない。。。


なんて劣悪な環境。


その光景を思い出してそれをそのまま叔母に話しました。

叔母は拘束帯付けられたらどうしようという心配もしていたので


昔はその拘束帯の家族への許可なんて得られなかったんですよ。拘束しますね。いいですねとだけ施設や病院から言われて承諾書にサインさせられる。他に預け先があるわけでもない。つれて帰ることも不可能な家族は頷くしかないのです。


と言いました。今いる施設はまだ良心的で拒否ができる。


昔のひどさを伝えたからといってホッとしたかどうかわかりませんが、施設の説明の多さや介助ごとに説明がある変更ごとにカンファレンスがあるという今はしっかりと人権を配慮されているんですよと伝えました。


ほんとに事あるごとに説明がありましたし昔じゃ考えられない。


なかには同意や説明はあるものの介護施設の利便性重視の施設はあるようですがね。


特に胃瘻(経皮的に胃に直接管を留置しそこから流動食を注入します)の増設については、誤嚥の心配があるという名目で、本当に必要ないのに造設して、食事を与えられず天井ばかり見て過ごすこと8年という人もいました。これ実は最近の話。狭い小規模病院の一室の6人部屋を8人部屋に無理やりした病室でそんな人がいるのを見てしまった。。。


それはさておき、


かなり曽祖母は恵まれているのだということがわかってもらえたかな、



事あるごとに比較をしたりこういう人もいるということを叔母に話していました。


最後には膀胱癌が分かり、膀胱癌の治療をどうしたらいいのかということに直面した時には私の父の余命がわかったころの話をさせてもらいました。


余命3ヶ月と言われてそのあと一年10ヶ月生きたんですよ私の父。でもね、その間に結婚式もしたんです。当時の私は余命3ヶ月を信じ込んでその限りと思い込んでたんです。若くて頭でっかちだったのでそんなふうにしか思えなかった。

姉や母たちはね、漠然と大丈夫っていったんです。その気持ちがないと結婚式あげたりできなかったしそんな気持ちも必要なんですよ。漠然と大丈夫と思ってやりたいことをやらせてあげられる時間があると思うことって大事だなあとおもったので、膀胱癌の積極的な治療よりも緩やかにどう過ごせるか考えた方が良くないですか?


と提案しました。


治療となれば膀胱鏡をいれたり辛い検査も待っています。



そこまで聞いて叔母は積極的な治療よりも美味しいおやつ持っていったりオイルやハンドクリームで手や足をさすりに行ったりあしげく通いました。


息を引き取る前には食事が食べれなくなったので

IVH(中心静脈栄養法)にするかという話になったころ私は娘を出産しました。


私は相談に乗れなかったのでひとりでこの大きな決断をしたようですが、それもまたしない決断ができた。延命にあたるからと。


苦しい選択だったと思います。かつて父にもありました。


娘が産まれて施設に合わせに行くことも出来ました。


娘が耳元で大きな声で泣いた時、曽祖母は1週間以上傾眠状態だったのに、大きく目を見開いてニコッと笑いました。

叔母も義父も介護士さんもみんな驚いていました。


いい時間になって良かったです。



次は義母がわの曽祖母が認知症が分かり介護中です。在宅で見られているけど義母の弟に負担がかかっている状態です。どうなるか、また見守りたいと思います。