怪我した両親はのちに医療機関が落ち着きを取り戻してからの受診になりますが、父は幸いにも麻酔にありつけ、止血もできました。
母は頚椎と腰椎の打撲で急激に炎症が起こったのか?高熱をだしました。
けどこの非常事態になると、冷やす氷もなければタオルを濡らす水もないのです。
うなされながら時を待つ。これがかなり辛かったです。
けど御家族を亡くされた方、まだ救出できないで泣き叫ぶ人も道を歩けば遭遇して、こんなことくらいで辛がってなんて居られないんです。
日に日に明らかになる被害の状況、耳に入ってくる噂などの情報があまりにも悲惨で過酷で。
すぐ目の前に建つ体育館と図書館には御遺体が次々と運ばれて皆んな何もいえず立ち尽くす。
そんな中での希望といえば だれかれか発端の炊き出しに巡り合えたりとか、自衛隊の方が持って来てくれたお湯で頭を洗えたとか。
そんなことから少しずつ、生きる希望になるものとか活力になるものとか気力をつないで行ったように思います。
私はというと、その頃進路はもともと看護科の高校へと決めてはいたのです。
こんな状況で助けに来てくれた医療従事者、自衛隊看護師がとても光ってみえたから
中卒で勤労学生という高いハードルぐらい越えてやる。って思ったのです。
18で准看護師そこから二年過程の看護学校を出て20歳で正看護師免許取得しました。
その五年で何もなかったことはなく…けどこれは別記事で書くことあればかきますね。
なんというか、いつか自衛隊の看護師目指してたけど結局心が追いつかずでした。
願書提出上限年齢超える前の年に父を亡くしたあと、思いのほか心が戻ってこずそのままです。
強くなろう強くなりたい
もがけばもがくほど逆効果なこと多かったです。
今になって思うことは、
現場で見て感じた恐怖とか人の死に対する心って
なにかどうにかしようとして理屈だけで解決できるものではなかったです。
ただ年を重ねることも必要でした。
またつきたい現場があって看護師できる日が来るのを信じてしばらくはお休みです。
最近かなり割り切り方が変わったなと自分で思います。
なんだかまとまりなくですが
これが私の看護道の始まりと強い意志の理由
でした。