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まだ春の真っ只中だったある日。
姫路市の亀山本徳寺に行って参りました。

最近、懐かしさに浸ることが多い。
好きな歌、作品のなかから、あの時の私を思い出そうとしている。
あの時抱いていた想いと今の私が交わることは、この先、きっとないのかもしれない。
だからこそ、変わる前の、あの頃の私が愛しく思えて、仕方ないのかもしれない。
十年一区切りのこの春がそうさせるのだろうか。
未来が定まらない、不安定なあの頃は、手離すことが怖くて、何もかもをひたすら繋ぎ止めようとしていた。
けれど、今はどうだろう。
残そうとしても、時代は、人は。とどまることを知らず。風のように。脆く。
流れに抗っても。身を任せても。結局、必要なものしか残らない。あるいは、残せたものに意味と愛しさを吹き込むことでしか、自分を保てない。
弱くなってしまったのだろうか。強くなれているのだろうか。
振り切れるほどの、割り切れるほどの強かさが身に付いたのは確かだけれど。一方で、正面から向き合うことの怖さやストイックになれない生温さを甘受してしまってもいる。事ある毎に切なさと尊さが先行するほどに、しなやかに、素直になってもいる。
かつての日々は恋しいけれど、揺れていたあの日々に戻りたいとは思わないものなんだなぁ。でも、繊細に、必死に生きていた、小さき、眩しき開拓者にもし会えるのなら、ひとつだけ伝えたいことがある。
悩みながら怖れずに進め、と。
春風は、不器用に生きていた自分自身を記憶の中から誘い出す。それは、まるで幻影のよう。暗中模索の日々にも雪解けは訪れる。それは、必ず私の一部となる。
包み込んでほしくて。包み込んであげたくて。暖かな春風を浴びたから、そんな気持ちが芽生えたのかもしれない。
また、そうさせるのは、穏やかさに初めて包まれた私自身でもあり、私が愛し私を支え続けた作品たちでもあるのだろう。







