知を愛する者が、興味のままに

知を愛する者が、興味のままに

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ご訪問有り難う御座います。気分が乗ったときに記事を上げています。尚、「いいね」返し等は行っておりませんことを、ご了承ください。また、私的哲学の部分は、将来論文にするためのメモ程度であり、私の人生は、見るに値しない独り言ですので、重ねてご了承下さい(かなり頻繁に推敲を重ねますので、期間をおいてご覧頂く事をおすすめします)。因みに、私は薄情な人間であり、愛を知る人間では無いです。

そもそも我々は認識を共有できるのだろうか?

我々は空間的に絶対的な隔たりがある。例え、視点を同一にできたと(仮定したと)して、それは時間的に隔たりをうむ。つまり、時間を統一できたとして空間的に、空間を統一できたとして時間的に隔たりをうむ。つまり、我々の同一は観念をかいさなければ成立しない



そもそも、我々は‘外’を認識するためには五(六?その他?)感をかいしてしかできない。それも‘外’も、我々の認知能力からして空間的・時間的にズレてしか認識できない。


つまり、我々が対話を成立させるための根拠は全て‘ズレて’いるのだ。


そもそも根元的に‘現実’としてズレているものを我々はどうして同じだと言えるのか?例え現実とは無関係に概念としてしか成立していない‘モノ’を我々はどのように捉え、それを同じだと言えるのか?

我々は自身の‘中’でなら、全ての間違い等でさへ正しいままでいられるという特長を持っているのにも関わらず、‘外’に出したなら何故その特長を無くし絶対的な真理を知り得ると思えるのか?

私はそれが少しも理解できない。


我々が知っているのは‘私’の言葉だけではないのか?それは信念等と間違い等により成立する自由という特長をもつ何か?でしかないのではないのか?


我々はそもそも対話できているのだろうか?対話を成立しているのではなく、「させている(つもりなだけ)」なのではないのか?


社会とは我々が勝手に思い込んでる構造の総体であり、それはただの個人の思い込みではないのか?


我々の世界は、独我論・超越論的にあるだけの思い込みではないのか?


我々は‘世界’を私自身が手に入れ、そして作り上げる。だからこそそれは強固である。しかし、それはだからこそ一瞬で壊せるほど脆いものでしかないのではないか?




余談だが、断言をする哲学者や科学者を私は認めない。それは哲学研究者や科学研究者であって、それを生活の糧や他の何か?のために利用しているだけであって、その‘真’の成果に疑問を持たない、成果よりも説得を大切にする人たちとは根本的に異なっているとしか思えない。

そもそも(無宗教者の)我々はこのような特長をもってして、真理の一破片でさへ知り得ているのだろうか?知ることができるのだろうか?




追記 リヒリズムや仏教の論理的根拠はこの特徴からも導かれ得る。‘それ’は、真理・実存を相対によりその絶対性を拒否させ、色と空を同時に成立させる可能性をしめすためである。