うまいルイボスティの店があるというので、柄にもなくわざわざ駅の反対側に下りて買ってきたのがこのブラックカラント味というやつだ。四階からタンブラー片手に窓を開けた自分はいかにも田舎くさかった。ブルーベリーの写真が載っている入れ物を見つめ、今度Nに会うまでこの箱も捨てずにおくことにした。 ―Product of South Africa― 自由が丘+ルイボスティといういかにも抜群の組み合わせが、要するにおいしさの必要条件だった。そんなたわいもない結論は、寒風に身震いして窓を閉めたぼくの何の役にも立たなかった。

 ああ、そうか。この風、ぼくのいるこの部屋に吹き込んだ風はついさっきまでどこを吹いていたのやら。ひょっとしたら、今頃ランチを食べ終えてビルに戻っている、あのNの周りを包んだ風かもしれない。

まさかな。しかし、まさかな、ということもあるまい。この保温効果のない、デザインだけは立派なタンブラーの中で、みるみるルイボスティが冷えていくのを感じた。ここの商品はティーパックをつけたままでも濃くならないという。果たしてそんなことがあるものかと、残りの分を一気飲みした。ぼくはまるで信じない。のどの熱い感覚とさっきの風で冷えた体と、平日一三時のぼくのリアリティはそのくらいのものだった。

Nは今頃……、ああ、さっきも同じこと考えていたっけ。風なんてものは、いったい何のために吹いているのだろうな。運ばれてきたキンモクセイの香りに色でもついていたなら、あの黄とも橙ともつかぬ植物の趣は風の色になってみんなの頬をつたうだろうに。そして、ぼくは、さっきぶつかられたあの盲目の中年女性を親切に、いや、親切にじゃなくて、ひとりの紳士としてホームの向かいに案内できなかったことを悔やんだ。いつも下りない南口改札の人だかりの中、ぼくはあの女性とともに引き返すことをしなかった。こんなところでルイボスなんとかなど飲んでいる場合ではなかった。

 よく考えてみれば、のどの熱さも体に残った冷たさも、本当のリアリティではなかった。あの盲目のたくましい女性は、ぼくの汚さを、杖の先からと、ぶつかった豊満な乳房の先からすっかりかぎ取ったろう。アフリカのお茶? そんなものはどうでもいい。ぼくはどうしようもない午後を迎えることになった。

 

「ちょっとそこまで来たものだから」と言っていたが、本当はそんなことはあるまい。用意周到なK氏のことだ。ここに来る計画を彼は最初から立てており、その「ちょっとそこまで来たものだから」という発言はすでに言うことが決まっていたに違いない。

 K氏から急な連絡を受けて私はマンションのロビーに降りた。今になって考えてみると、みんな彼なりの計算があってのことだろう。改めて「ちょっとそこまで来たものだから」と傘を折りたたんで、スエードのジャケットについた雨粒を丁寧に取り払う彼は親しき仲にも礼儀ありで、「突然お邪魔して大丈夫だったか」とわざわざ添えた。「読書会の帰りでね」というわけで「ついでだから寄ることにしたんだ」と笑って見せた。私はその雨粒が落されたジャケットを脱いではどうかと訊いたが、「着ている方が落ち着く」という理由で拒んだ。そして、「第一ジャケットをかけられるところがない」と友人は古びた暗いロビーを見回した。だから私は友人に「このロビーにかけておくところがないから君は仕方なく脱げずにきているのだろう、だから適当にその辺りにほっぽらかしておけない君はそのきれいなジャケットを着ているほうが落ち着くということなんだろう」と問うた。これでK氏打ち負かしたはずだった。彼は「そうかもしれない」と真面目な表情をした。

 K氏は午前から神保町に出かけたときにどうやらあらかじめ見繕っておいた和菓子屋の上等な餅を二人分買って持ってきて、私との文学談義のためにロビーのテーブルに広げた。これを手に入れるために自分は長い列に並んだのだということを私にまず伝え、「こんなお店があるのは知らなくて近づいて店を覗いてみると」とダメ押しの言葉を彼は放った。私はK氏がこういう人間だから好きだ。和菓子の味は覚えていないが、その小さな和菓子を二つ丁寧に私としゃべるために手ぶらでは悪かろうと気を配った律義さを忘れない。話を聞いていると、例の読書会とやらはごく親しい友人とだった。彼といたもう一人の彼の友人とやらを私は知らない。彼のような真面目な人間に付き合い、語ろうとする人間が私の他にいることが、にわかに彼のこれまで閉じた人生の片りんを垣間見たようで、これで私はまた少し彼に接近することができた。その読書仲間に私は会わずとも、豊かな文学空間がどこかの喫茶店で生まれていたことが春の雨とあいまってすがすがしい感動となった。

 私が「バレリー」と言うと、「ああ、ヴァレリー」と彼は唇をかんで発音した。私のバレリーは彼にとってはヴァレリーでなくてはならなかった。細部にこだわる彼は、「感動したから山に昇る者もいれば、海へと下る者もいる」と説いた。要するに感動の表現の仕方、感動した後の行動というものは人によって千差万別ということだった。

 私はK氏と過ごしたその「ついで」という時間の感動をどう示そうかと思ったが、彼の魅力というものは後になって増してくるもので、これまたいつだったか彼が会話の中でふいに放った「認識は遅れてやってくる」という言葉とリンクした。当のその時はわからぬことも、後々は認識できるようになる。K氏から私は教わるばかりな上、今なお、和菓子の返しもできていない。今度は私が「ちょっとそこまで来たものだから」と周到に準備して出向くつもりでいる。

 

 酔いつぶれた恋人をなんとか席につかせ、ほっと一息ついた彼女はまだ実に二十歳かそこらの娘であった。すでに車両の席は埋まり、娘は立ったままであった。小さなポーチをかけ、丈の短い服の下からは娘のへそが可愛らしくのぞいた。乗客らはそんな娘のくびれた腹部に目を止め、ある中年女性はそれを嫌悪し、またある中年男性はいやらしくそのハリのある肌を見つめた。

私もまた情けない男の一人でしかなかった。私は介抱されるあの若造になれるものならなりたかった。そして、私と若造を比較して、自分の方が二枚目でハンサムに違いないと思ったが、娘はそのことがわかっていない。ろくすっぽ私の方など見向きもしない。

 そんな若造、放っておいて、これから一杯いかがですか。

戸塚に止まった。二つ隣が空いたが、肝心の隣の席の三十路女は厭味ったらしく席をカップルのために譲らなかった。私はあの娘がへそさえ出していなかったら、この三十路女は善意を働かせただろうと確信した。娘は目の前のこの嫌味な女を、ひどく恨んだに違いない。舌打ちのひとつもしてやればよかったのだ。そうすれば周りのおじさんたちはきっと君に味方して、三十路女をいっしょになって非難してやっただろうに。

そう、恨め。にくらしいその三十路女を恨めばいい。ただし、君は、その三十路女が君を猛烈に嫌悪していることに気づいてはいまい。だから、君はなお、そこに立ち続けなくてはならないんだ。いいか、悪いのは、君なんだ。その三十路女の方ではないのだよ。君が楽しそうに見えてしまうんだ。乗り合わせた客たちは、いい加減、君に腹が立っているんだよ。だって、君たちは、この車両の中で最も幸せそうに見えてしまうのだから!

やがて、まもなく大船駅着を知らせるアナウンスが鳴ると、若造は上体をわずかに起こし、着ているサッカーシャツからどこぞのチームのロゴが見えた。カップルはどこかに観戦に出た帰りだと知れた。全く幸せな二人だ。男は娘に引きずられるようにして、降りた。これまた幸運なことに目の前にベンチがあった。男はどこまでもラッキーだった。

いやはや横浜駅での乗車時に、このへそ出しのろくでもない娘が、大船駅のベンチの位置を計算して乗ったとは考えにくい。まさか、そんなことはあるまい、私はそう断定した。電車は再び動き出し、私とその他の乗客たちは、降りたカップルを窓越しに眺めた。二人のこの後を、きっと、みんな知りたかったのだ。

どんなに酔おうが、女を抱けないことなど男にとってはあり得まい。だいたい酔っていればこそ、そばにいる女がいつもにまして色っぽく映るということもあろう。だからこの後二人がどうなるかなんて予想は、どうせ一通りの答えしかなかった。大船から先、熱海方面へ向かう客たちは、それもみんながみんな男どもは、この娘の恋人に憤懣やるかたない様子だった。

ああ、まったく私の思い過ごしか。きっとみんなこの娘に、くびれた腰に、欲情をかき立てられながら、娘の視線が少しもこちらに向かないことをもどかしく思っているのだ。介抱される若造には腹を立てつつ、へそなど出して平気でシャバの世に出る不潔な女に一番苦労させられるのはまたこの若造に違いないと推し量ると、急に今度は若造に対して同情とも哀れみともつかぬ親近感から、この男を応援してやりたいように思えてくるのだった。

私は人間だった。私がどれだけ卑屈になろうが、私の周りの男性乗客たちは、きっと、私の同士であった。

さて、もう窓からその二人が消えようとするとき、娘が財布を取りだした。向かう先には自販機があり、この後の風景としては、娘は男に水を買ってやるのだろう。そんな優しい女は、その献身性ゆえに結局は得をしない。献身は己の身を苦しめるものでしかないということを彼女が知るには、もう倍とは言わないまでも、あの嫌味な三十路女くらいの年にならねばならない。この晩から十数年経った頃、今度はあの娘が、若くて幸せそうな小娘に席を譲らない嫌味な女になっているかもしれない。それを成長と呼ぼう。その十数年後の車両に、幸運に私が乗り合わせたなら、「へそなど出すな」と小娘に一喝してやろうかと思う。

 

 五叉路のちょうど目立つところに自販機がある。その道を挟んだ古い木造家屋の二階からピアノの音が漏れてくる。一階は車庫になっていて、その奥の方には、おんぼろのミニバイクが置かれている。とても動くものとは思われない。

その木造家屋の前の坂を三人は上っている。小さな辻を二つ三つと過ぎると、自分たちを追い抜いていく者もいなくなった。だれが名付けたか、その坂を月見坂というらしい。

「新しいおうちどこかしら。コウちゃんわかるかな」

 コウは父と母に手を引かれ、かえって歩きにくそうにしながら、それでも不意に飛び跳ねてみせた。「あらら、まだコウちゃんはとっても元気ね」と母は嬉しそうに笑った。体力で劣るはずのコウがジャンプする度、二人はつかんでいる手を引っ張られた。まるで、コウが二人の手を引いているようだった。

「お母さんたちよりもずっと元気よ。ねえ、あなた」

 よく晴れた空は、夜になると日中よりも一層澄んで見えた。空は明るかった。どこかに月が出ているものと思われた。まだらに広がった雲の間から、小さな星々が顔をのぞかせている。

「あれは、オリオンだよ」

「どれかしら」

 妻は夫の肩に顔を寄せて指の先をたどってみる。

「あなたの指しているのはどの辺りかしら。もともと私は星座を読むのが苦手ですのよ」

「なんだ、ほら、あれだよ。あそこに見えるじゃないか」

「いいえ、ちっとも」

「なんだって。君はずいぶん損な人だね」

 依然、コウは二人の前に飛び出している。一息つくのに立ち止まろうと二人がコウの手を離すと、やっと自由になれた。それから駆け出していった。 

「君はいつも同じコートを着ているが、ずいぶんお気に入りのようだ。だいぶ背中のあたりがすり切れてしまっているね。どうだ、今度のぼくの休みにでも街へ見にいこうか」

 夫の肩に頬を当てて、じっと空を見てみると、どうやらそれらしい星の一群が見えてきた。星と星を結んで、「あれがそれかしら」と直感した。

「これ一枚で十分よ。ひと冬くらいあっという間に過ぎちゃうんですもの。それより、あなた。あたしにもやっとわかったわ。そのオリオンというやつが」

 夫は妻の手を取った。妻はその手を自分の腰に回した。

「私の手はすっかり冷たいわ」

「風邪を引いちゃ大変だ」

 とうとう我慢できなくなったのは妻の方だった。

「あの多摩の家、売り払ってしまってよかったのでしょうか」

 夫はにやりと笑った。

「どうだかね。ひょっとしたら、失敗だったかもしれないね。それも、大失敗かもしれないね。あんなに星がきれいに見える庭は、ちょっと簡単には探せないだろうからね。まあ、いいだろう。どこでも住めば都というじゃないか」

 なくした後になって、急に恋しくなるのが人間だ。おおよそ青春なんてものはそんなものだ。認識はいつも遅れてやってくるものだ。

「じゃあ、やっぱりあそこに住んでいればよかったかしらね」

「ああ。そうかもしれないね。しかし、もう今頃は不動産屋の主人も動き始めているだろうしね、仮にそうでなくても、あの人は頑固な人だし今さらどうにもなりはしないよ」

 夫は妻を不安にさせた。

「今回は仕事のことなんだ。どうしたって、ぼくたちはここに住むと決めたんだからね」

 踏切音が三人の場所まで上ってくる。

「そうよね。名残惜しさなんか、あっという間に消えてしまうものよ。そうでなかったら、未練がましいったりゃありゃしない」

 星々が季節によって入れ替わって見えるように、人間もまた変わっていくものだ。

「いつかあそこで見た夜空のこと、ぼくも君も忘れてしまうのかね」

「私に聞いているのですか」

 夫はまたにやりと笑って、「いいや」と首を振った。

「あなたったら、なんにもおかしがることじゃありませんよ」

「人間はどんどん忘れてしまうんだよ。大事な思い出も、次から次へといろんなことが起こるうちにね。みんな忘れてしまって、何もなかったかのようになってしまうのさ。忘れたことは、なかったことさ」

 上の方まで進んだコウは、近所の屋敷の庭へ目をやっている。一つだけ実が残った柿の木を指さして、二人に何か言おうとしている。

「そのうちあそこの住人に食べられるんだろう」

「あの柿はあんなにぼくらに近く、あの星はあんなにも遠く、果たしてぼくらの見ているものが同じかどうか、本当はわからない」

そう言われて、三人で見上げている空に光り輝く星たちが、全員同じものを見ているのだろうかと怪しくなってきた。夫の指しているものと、コウが見上げるものと、妻の「ああ、あれだ」と思っているものが、見事にいっしょだなどと断定できるような根拠は何もない。

「もう冬なのね」と妻がつぶやいたとき、夫は「そうか、もう秋は終わったんだ」と気が付いた。それからしばらく何か考えて、口を開いた。

「コーヒーが秋で、牛乳が冬としよう」

 今度は妻の方がにやりとした。

「あなたの癖が始まったわね。どうぞ続けてくださって」

「この時期は、コーヒーでもなく、牛乳でもない。ちょうどコーヒー牛乳というのが適当だろう。コーヒー牛乳というやつは、実に中途半端なものだね」

 コウに追いついて、三人は並んで歩いた。

「あの柿はよく熟しているわね。どうして一つだけ残っているのかしらね。それにしてもこの暗い中でよく見つけたこと」

 

 気慣れたコートの内側にはまだ多摩の空気が幾分残っているような気がした。それなら、いっそ新しいのを買って、多摩の記憶は押入れにひっそりとしまっておけばよいだろうということになった。

 居間の電気が灯り、いっしょに庭が明るくなった。妻は、縁側の戸を開けて、夜風を入れた。

「ねえ、あなた、少し外に出ましょうよ」

 妻が先に出て、夫の履くものを並べてやった。

「掃除でもないのに、君が、珍しいんだね」

「いらっしゃらないの」

「コウを風呂に入れてやらなくっちゃね。せっかくの秋の夜なんだ、少しいい風にあたりなさい」

「あら、秋はもう過ぎてよ」

「いや、だから、過ぎたということもないんだ。そうだ、……」

「……。コーヒー牛乳、でしょ」

 夫は照れたようだった。

「上手なたとえだろう?」

「どうかしらね」

「伝わらないかね」

「そうね。そうね……、あなたらしい、というくらいしか言えないかしらね」

「まあ、何でもいいから、体がすっかり冷えないうちに上がりなさい」

「優しいのね」

 庭の先頭に立って、今来た道を見下ろせば、坂を上ってくる者はなかった。そうなるといよいよ吹く風が寂しく感じられた。木々の葉がよく揺れた。暗い中にも、ついさっき落ちたのだろうと思われる葉が数枚あった。自分はいつまで今夜のことを覚えているかと問うた。オリオン。息切れしながら星を見たという経験を、一体どれだけ先まで記憶として持ちえているかということが気になりだした。それはこの夜が幸せだったということの裏返しだった。

 やせた胸に手を当てて、もうここまでは届いてこないピアノのメロディを思いながら、大きく息を吸った。自分の体は、コーヒーと牛乳の季節で満たされていく。開いた戸の隙間から、湯を浴びる音が漏れてくる。家の中はいつもの夜と変わらなかった。肺にため込んだ新しい季節を一気に吐き出して中へ入った。冷蔵庫を開けて、一本だけ残っていた夫のコーヒー牛乳を取り出して一気に飲んだ。夫の驚く顔が目に浮かんで、早く風呂から上がってこないものかと楽しみになった。自分たちがここの家に慣れるころ、明け渡した多摩の家にも新しい住人があらわれるだろう。そのときまで、あの庭は、あのままだ。

 

― 二月ももう終わりね ―

そうつぶやいたのはコールスローをつつく彼女だったか、隣の席で眉間にしわ寄せてパソコンを見つめるキャリアウーマンだったか。どちらの声だったか。ぼんやりしていたのは自分だったか。しかし考えてみると、ぼんやりしているのはいつものことだ。日曜の夕方、曇りガラスの外に高校生の影が映る。

きょう彼女は初めてコートを脱いだ。今朝起きて二人で選んだパッションピンクのスカートは、うす暗い大衆バーでよく映えた。

「きょうは学校かしら」

「どうだろう。だって日曜だよ」

 彼女は「そうね」とだけ言って口に含んだままだったキャベツを再びかみ始めた。

 

「きょうは何かしらね」

 思い当たることがない。

「なんだろう」

「何の日だと思う?」

 今度はポケットに手を突っ込んだ高校生たちが並んで過ぎていった。

「コートも着ないでマフラーだけ」

 ようやく彼女はのみこんだようだ。

「ぼくらの年の半分か」

「たった半分?」

 彼女は感慨深く「懐かしい」と言った。

「ああ、思い出した。きょうは国公立の試験日だよ。ちょうど終わって帰るところだろう」

 のんきに酒など飲んでいるのは悪い気がした。

はしを置いた彼女は、残り少ないハイボールに口を付けた。

「そうじゃないのよ……、きょうは出会って二カ月の日よ」

 キャリアウーマンはその手を止め、こちらを覗いたが、直に向き直った。

「じゃあ、毎月ぼくたちには記念日がやってくるというわけだね」

「そうよ」

 ぼくは残りのコールスローを彼女の口へ運んだ。彼女はよく噛んだ。それを眺めているうちに時間が過ぎた。

「ねえ、脚をくむのやめましょうよ。私、気を付けていることがあるのよ。誰かに話しかけられたときは、相手の方にちゃんと自分の胸を向けるって」

 彼女は急に生き生きして、自身の両肩にすっと手を当ててぼくを見た。

「その方がぴしっと見えるでしょ?」

席が狭くて、くんだ脚をほどくのが大変だった。ぼくはキャリアウーマンの尻に自分の脱いだダウンが当たっていたのに気が付いた。表情が厳しかったのはそのせいだ。

 

レシートをすっと抜き取って「私が払うね」と彼女は言った。ぼくは空になったプラスチックの伝票差しを手に取った。何の重さもないその円筒でひょいとすくう真似をした。透明な筒の底から抜け落ちるふたりの時間は、幸福な時間。空気をすくえず、時間もすくえず。ぼくのすくいたいものはすくえない。

「受験って青春よね。がんばった人は全員合格だといいのに」

 伝票差しの底から彼女の大きな瞳を見つめた。

「それじゃあ、試験にならないじゃないか」

「それもそうね」と言って、にこにこ笑った。

そして両手で筒を作ってぼくを覗きこんだ。

 

彼女は座ったままコートを着て、するりとテーブルの間を抜けた。

「外は寒そうね」

若い女の店員がハッピーアワーの幕を外している。その脚立がぎしぎしと音を立てた。

「ねえ、このプラスチックのこれ」

 うん。とぼくの手を見た。

「これ、どうして底が開いているのだろう」

 くるくる回して見せた。

「そういうものなのよ、きっと」

「そういうもの?」

 彼女はうなずく。

「ええ。コップと間違えてお水でも注いだらこまるでしょ」

 彼女は陽気に水を注ぐ真似をして、テーブルに置いた。

「水くらいなら、まだいいけどね」

 店の外は相変わらず人々の往来でせわしかった。クリスマスはとうに終わったが、電飾は装いを新たに、駅の往来人を照らそうとしている。しかしそのための電飾の数は、たくさんの人が抱えた寂しさを吹き飛ばすにはとても足りなかった。みんなを照らすには、もっと多くの明かりが必要だった。

「きれいね」

「ああ、さすが横浜だ」

日本海側では降りすぎるくらいの雪が降り、人々の心をじっとりと湿らせているというのに、ここ横浜では雨すら降らない日が続く。振り返ったあの店の中は、夜の落ち着いた雰囲気に包まれている。ガラスの向こうははっきりと見えないが、あのキャリアウーマンもそろそろ帰り支度を始めるだろうか。

 

 改札から出てきたマリーはパン屋の前で待つジョニーの腕を取って「きょうはすてきな受験生? 受験生かしら。すてきな高校生に会ったの。ああ、なんだか懐かしいな」と嬉しそうだった。

「会ったって……、何か話したの?」

「ちがうの。見てただけ。あたしの方がジーっと見てたから、気づいてたらあの女の子きっと変に思ったでしょうね。英単語帳ひろげて、そう言えばもう入試のシーズンですもんね。なんだか健気だと思わない? まっすぐよね。若いコって」

「高校生なんてそんなものじゃないのかい」

「ちがうわよ。あたしが言ってるのは、そういうのすてきだねってことなの」

 英単語帳をひろげる高校生に自分を重ねる年になったマリーの気持ちを考えた。年をとり、着ている服や持っているカバンはすっかり変わっても、そんな風景に過去を懐かしむマリーだった。

 その高校生はマリーといっしょには下りなかったというから、どこまで行ったかわからない。マリーが見届けた先に高校生の明るい未来があることを願ったのは、彼女だけではないだろう。マリーの出逢った高校生に次第になんとなくジョニーも胸を打たれ始めた。

「マリーは英単語とか覚えてる?」

「覚えてるわけないじゃない」

ふたりは笑った。

「今夜は何にする?」

 平日の夕方らしくたくさん並んだ野菜を眺めてマリーは訊いた。

「お味噌汁?」

「今日も?」

「その女子高生、合格するといいな」

「うん」と笑顔で頷いたマリーはさわやかだった。

「女子高生もまっすぐだけど、君だってそうだ」

「まっすぐって言ったら、ジョニーもでしょ?」

「おれはちっとも」

 マリーの目が遠くに止まった。

「ねえ、あの奥さん、見てみて。すてきじゃない?」

「ああ、本当だ」

「なんだろう、あたし、あんなふうになれたらな」

「すてきな旦那さんが家で待っているんだろう」

 自前の買い物袋を提げた老婦人は、ふたりと目が合って小さく微笑んだ。マリーは慌ててお辞儀をした。ジョニーは何もできなかったが、いずれマリーがその年になったら、ああして見ず知らずの若いふたりに微笑んでいそうだった。夕方のマリーは輝いていた。

 

 線路の向こうに街路樹が並んでいる。電車が通過してこの踏切がようやく開いたら、よーいドンでスタートする。ぼくだけではない。買い物袋をさげた主婦はもう何十年ここで足を止めたろう。向かいでマフラーに半分顔をうずめた女子高生の頬はほんのりと紅色である。

 車が一台二台とたまっていく間、主婦はまっすぐ前を見つめ、息を裸の手に吹きかけてさすりさすりした。それにあわせて、腕につるされたビニール袋が鳴った。中がすっかり見えてしまっているビニールは、なんのためにこんなに透き通っていなきゃならないのかぼくにはわからなかった。

 主婦がここで立ち止まり考えることは、ときにこれまでの人生そのものであるかもしれない。やがて若い男女が、ぼくの少し後ろに止まった。この女もまたマフラーに顔をうずめんとして両方の肩を上げている。男は向かいの街路樹を指さし、女に言った。

「葉っぱもすっかり落ちちゃって」

 女は「ねえ」とうなずいた。

「ねえ、って…それだけ?」

 肩を小刻みに揺らし、女は「ほんとだね。左側の木の方はまだ葉っぱ残っているのにね」と言葉をつないだ。そんなばかなと、ぼくは右と左を見比べてみた。なるほど、そう言えば、夏の終わりからこの路の右側しか通っていなかったら、左に目を向けることがなかったのだ。

「ほんとうだね。同じ木なのにね」

「同じ木なのに…。同じときに、同じ木の葉っぱが、片方だけかれちゃって、もう片方は残ってて」

 この男女は幸福なことに、寒風に吹かれながらもその吹きさらしの手をしっかり握り合い、まだ何分でも踏切があかずとも待っていられるかに見えた。それは、ぼくの嫉妬からくる想像だった。

 右と左の街路樹の葉っぱが同時には散らなかったように、この幸福な男女もまた、いずれかが先に枯れることがあるかもしれない。幸福なときを共に過ごしながら、同じ風に吹かれ、行きかう電車を見つめながらも、何かの折にひとつの恋が終わりを告げることがあるかもしれない。左の主婦は依然として、祈りを捧げるように、両手をこすり合わせている。一向に開かない踏切に業を煮やすような歳では、彼女はもうない。この主婦も、かつては恋人の待つ部屋に一分一秒でも早く帰りたくてしびれを切らした若き乙女だったろう。想像はふくらむばかりだった。踏切という時間と空間の遮断が、私たちを否応なく立ち止まらせた。

遠い将来、まだこの街にぼくがいて、あのアンバランスな葉の散り具合の木々を見つめたとき、ふと手を握り合う後ろの男女を思い出すことがあれば、ぼく自身、今日という日をわりと有意義に過ごせたということだろうか。

 

 窓から見える白い花。名前を知らないその花は桜より一足早く咲いた。その家のとなりでも咲いている。辺りが急に違って見えたのは、この白い花をつけた木々のためだった。短く降った雪はもう日陰にもない。とけて消えたとき、東京の冬はこれで終わったと思った。そして清らかに咲いたその花は、季節が移ったことを教えてくれた。自然のカレンダーは一枚めくられた。眠気覚ましのコーヒーを飲むぼくは、眠気覚ましのためだけに飲まれるコーヒーを気の毒に思った。窓辺に置いた時計の針がはっきり見えなかった。駅へ走るひとの足音もしなくなり、鳥がさえずっている。横浜の坂には、こんな朝が広がっている。窓の向こうに広がる丘陵地帯は、それぞれの方向から自分たちの景色を眺めることができる。同じ場所も、異なる方向から眺めれば違って見える。丘陵の真ん中は、三六〇度からそれぞれの人が眺めた定点である。定点は一つでも、その見方は様々だということだ。

 景色の一角にある駅を中点にして、線路が立体交差する。ここから見下ろすとなりの広い庭はしんとしている。それはいつものことである。茶でもすすりながら、老人が中からあの白い花を眺めているだろうか。明け方には雨が止んで、地面はかわき始めている。強い風が吹き、庭の木々を揺らしている。もう寒くはない。

 朝の格好もそろそろ考えなくてはいけない。名前を知らない花は、知らないままでよい。知ってしまえば輝きが薄れてしまうかもしれない。あの花はきれいだった、というふうに、あの花が枯れる頃にふと思い出すくらいでいい。あの花はきれいだった。あの花の名をぼくは知らないままでいよう。ぼくが白い花を見ているところをばったりそこの主人に見られても、これは何という花ですかとは尋ねないようにしよう。知らない方がよいこともある。この白い花を見て、季節が変わったことを知る。壁にかかっているカレンダーをはがすのはその後だ。やはり順番はこうでなくちゃ。坂の多いこの街で、上の家に日差しが阻まれてさっきの花は陰に入ってしまった。いくつもの春を迎える中で、じっと花を見る私の顔のしわが増えていき、それと実感するのは、ぼくがこの白い花に気づいたのと同じく、ちょっと遅れてである。

 ああ、また咲いた。今年ももう咲いているじゃないか。という驚きは、美しい花でさえその美しさをひとがいかに忘れやすいかということを示している。とてもきれいな花でその名前を知りたいというのは、若い時分、カフェのウエイトレスに思いを寄せたのに似ている。バッジの名前は暖色の店内でははっきり読めなかった。あのとき名前を知っていたら、ぼくはこの白い花に彼女を投影することはなかっただろう。ことばは美に対して遠回り。ここに坂があった。木があった。その木はきれいな花をつけ、自分がそれを見ている。こんな事実を書き留めるのは、忘れやすいという性を残念に思い、死ぬまでに一度や二度読み直すこともあるだろうかと思うからだ。ウエイトレスがコーヒーを配って回る間、コーヒーよりもウエイトレスに気がいった。コーヒーの種類はなんでもよかった。ぼくはそんなにコーヒーが好きではなかった。きれいな花を見る度に、植物の知識が何もないからか、あの暖色の喫茶店を思い出している。

 (『花の名前について』)