五叉路のちょうど目立つところに自販機がある。その道を挟んだ古い木造家屋の二階からピアノの音が漏れてくる。一階は車庫になっていて、その奥の方には、おんぼろのミニバイクが置かれている。とても動くものとは思われない。
その木造家屋の前の坂を三人は上っている。小さな辻を二つ三つと過ぎると、自分たちを追い抜いていく者もいなくなった。だれが名付けたか、その坂を月見坂というらしい。
「新しいおうちどこかしら。コウちゃんわかるかな」
コウは父と母に手を引かれ、かえって歩きにくそうにしながら、それでも不意に飛び跳ねてみせた。「あらら、まだコウちゃんはとっても元気ね」と母は嬉しそうに笑った。体力で劣るはずのコウがジャンプする度、二人はつかんでいる手を引っ張られた。まるで、コウが二人の手を引いているようだった。
「お母さんたちよりもずっと元気よ。ねえ、あなた」
よく晴れた空は、夜になると日中よりも一層澄んで見えた。空は明るかった。どこかに月が出ているものと思われた。まだらに広がった雲の間から、小さな星々が顔をのぞかせている。
「あれは、オリオンだよ」
「どれかしら」
妻は夫の肩に顔を寄せて指の先をたどってみる。
「あなたの指しているのはどの辺りかしら。もともと私は星座を読むのが苦手ですのよ」
「なんだ、ほら、あれだよ。あそこに見えるじゃないか」
「いいえ、ちっとも」
「なんだって。君はずいぶん損な人だね」
依然、コウは二人の前に飛び出している。一息つくのに立ち止まろうと二人がコウの手を離すと、やっと自由になれた。それから駆け出していった。
「君はいつも同じコートを着ているが、ずいぶんお気に入りのようだ。だいぶ背中のあたりがすり切れてしまっているね。どうだ、今度のぼくの休みにでも街へ見にいこうか」
夫の肩に頬を当てて、じっと空を見てみると、どうやらそれらしい星の一群が見えてきた。星と星を結んで、「あれがそれかしら」と直感した。
「これ一枚で十分よ。ひと冬くらいあっという間に過ぎちゃうんですもの。それより、あなた。あたしにもやっとわかったわ。そのオリオンというやつが」
夫は妻の手を取った。妻はその手を自分の腰に回した。
「私の手はすっかり冷たいわ」
「風邪を引いちゃ大変だ」
とうとう我慢できなくなったのは妻の方だった。
「あの多摩の家、売り払ってしまってよかったのでしょうか」
夫はにやりと笑った。
「どうだかね。ひょっとしたら、失敗だったかもしれないね。それも、大失敗かもしれないね。あんなに星がきれいに見える庭は、ちょっと簡単には探せないだろうからね。まあ、いいだろう。どこでも住めば都というじゃないか」
なくした後になって、急に恋しくなるのが人間だ。おおよそ青春なんてものはそんなものだ。認識はいつも遅れてやってくるものだ。
「じゃあ、やっぱりあそこに住んでいればよかったかしらね」
「ああ。そうかもしれないね。しかし、もう今頃は不動産屋の主人も動き始めているだろうしね、仮にそうでなくても、あの人は頑固な人だし今さらどうにもなりはしないよ」
夫は妻を不安にさせた。
「今回は仕事のことなんだ。どうしたって、ぼくたちはここに住むと決めたんだからね」
踏切音が三人の場所まで上ってくる。
「そうよね。名残惜しさなんか、あっという間に消えてしまうものよ。そうでなかったら、未練がましいったりゃありゃしない」
星々が季節によって入れ替わって見えるように、人間もまた変わっていくものだ。
「いつかあそこで見た夜空のこと、ぼくも君も忘れてしまうのかね」
「私に聞いているのですか」
夫はまたにやりと笑って、「いいや」と首を振った。
「あなたったら、なんにもおかしがることじゃありませんよ」
「人間はどんどん忘れてしまうんだよ。大事な思い出も、次から次へといろんなことが起こるうちにね。みんな忘れてしまって、何もなかったかのようになってしまうのさ。忘れたことは、なかったことさ」
上の方まで進んだコウは、近所の屋敷の庭へ目をやっている。一つだけ実が残った柿の木を指さして、二人に何か言おうとしている。
「そのうちあそこの住人に食べられるんだろう」
「あの柿はあんなにぼくらに近く、あの星はあんなにも遠く、果たしてぼくらの見ているものが同じかどうか、本当はわからない」
そう言われて、三人で見上げている空に光り輝く星たちが、全員同じものを見ているのだろうかと怪しくなってきた。夫の指しているものと、コウが見上げるものと、妻の「ああ、あれだ」と思っているものが、見事にいっしょだなどと断定できるような根拠は何もない。
「もう冬なのね」と妻がつぶやいたとき、夫は「そうか、もう秋は終わったんだ」と気が付いた。それからしばらく何か考えて、口を開いた。
「コーヒーが秋で、牛乳が冬としよう」
今度は妻の方がにやりとした。
「あなたの癖が始まったわね。どうぞ続けてくださって」
「この時期は、コーヒーでもなく、牛乳でもない。ちょうどコーヒー牛乳というのが適当だろう。コーヒー牛乳というやつは、実に中途半端なものだね」
コウに追いついて、三人は並んで歩いた。
「あの柿はよく熟しているわね。どうして一つだけ残っているのかしらね。それにしてもこの暗い中でよく見つけたこと」
気慣れたコートの内側にはまだ多摩の空気が幾分残っているような気がした。それなら、いっそ新しいのを買って、多摩の記憶は押入れにひっそりとしまっておけばよいだろうということになった。
居間の電気が灯り、いっしょに庭が明るくなった。妻は、縁側の戸を開けて、夜風を入れた。
「ねえ、あなた、少し外に出ましょうよ」
妻が先に出て、夫の履くものを並べてやった。
「掃除でもないのに、君が、珍しいんだね」
「いらっしゃらないの」
「コウを風呂に入れてやらなくっちゃね。せっかくの秋の夜なんだ、少しいい風にあたりなさい」
「あら、秋はもう過ぎてよ」
「いや、だから、過ぎたということもないんだ。そうだ、……」
「……。コーヒー牛乳、でしょ」
夫は照れたようだった。
「上手なたとえだろう?」
「どうかしらね」
「伝わらないかね」
「そうね。そうね……、あなたらしい、というくらいしか言えないかしらね」
「まあ、何でもいいから、体がすっかり冷えないうちに上がりなさい」
「優しいのね」
庭の先頭に立って、今来た道を見下ろせば、坂を上ってくる者はなかった。そうなるといよいよ吹く風が寂しく感じられた。木々の葉がよく揺れた。暗い中にも、ついさっき落ちたのだろうと思われる葉が数枚あった。自分はいつまで今夜のことを覚えているかと問うた。オリオン。息切れしながら星を見たという経験を、一体どれだけ先まで記憶として持ちえているかということが気になりだした。それはこの夜が幸せだったということの裏返しだった。
やせた胸に手を当てて、もうここまでは届いてこないピアノのメロディを思いながら、大きく息を吸った。自分の体は、コーヒーと牛乳の季節で満たされていく。開いた戸の隙間から、湯を浴びる音が漏れてくる。家の中はいつもの夜と変わらなかった。肺にため込んだ新しい季節を一気に吐き出して中へ入った。冷蔵庫を開けて、一本だけ残っていた夫のコーヒー牛乳を取り出して一気に飲んだ。夫の驚く顔が目に浮かんで、早く風呂から上がってこないものかと楽しみになった。自分たちがここの家に慣れるころ、明け渡した多摩の家にも新しい住人があらわれるだろう。そのときまで、あの庭は、あのままだ。