大河ドラマ『べらぼう』を見てとても切なくなったので、久しぶりに記事書いた。
(久しぶりの記事がこれかいって内容です)
先週の放送分での歌麿の台詞。
「蔦重は俺の欲しいモノなんて何一つくんねえんだ」
この言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれた。
それは不満でも怒りでもなく、愛しているからこそ生まれる“諦め”の響きだった。
史実では、歌麿と蔦重が疎遠になった理由は明らかになっていない。
けれど、この回の脚本を手がけた森下佳子さんは、その空白を「愛がすれ違う痛み」として描いた。
事実をなぞるのではなく、心の真実”を浮かび上がらせるその筆致の繊細さに、ただただ息を呑んだ。
噛み合わない会話。
すれ違う視線。
そして「くれない」というたった一言に込められた深い哀しみ。
そのどれもが、報われない恋を知る者の心を震わせる。
好きなのに届かない。
近くにいるのに、どうしても遠い。
その痛みを、派手な演出ではなく「沈黙」と「間」で描く。
それこそが、森下佳子さんの脚本の凄みだと思う。
僕にも、似たような恋がある。
ノンケの男性に恋をして、一緒に笑いながらも、心のどこかで“永遠に交わらない線”を感じている。
彼がくれる優しさは、僕が本当に欲しい優しさじゃない。
それでも、彼の笑顔を見るたびに胸が熱くなる。
「くれない」ことが分かっていても、それでも好きでいられる。
その矛盾こそが、恋の真実なんだと思う。
森下佳子さんは、そんな叶わない恋の美しさを、史実の空白から丁寧に掬い上げてくれた。
「くれない」ことを責めるのではなく、その不完全さの中に人の優しさや誇りを描いてくれた。
それは、歴史を超えて今を生きる僕たちにも響く、普遍的な愛の形。
僕にとって、この回の『べらぼう』はただの大河ドラマではなかった。
それは、届かない恋を抱える過去の僕自身の物語でもあった。
その時の事を思い出して、なんだかとても切なくなった。
この心境、ゲイとしてはあるあるだと思うけど、視聴者の大半であるノンケの人には、真に理解は出来ないと思う。
それにしても、大河ドラマで、まさかノンケに恋するゲイ(バイ?)の切ない恋物語を見せられるとは思わなかった。
歌麿が7歳の時に男娼やらされていた話しもあったし、今回の大河ドラマ攻めてますよね。
以上
久しぶりの記事なのに、ブログの趣旨とは全く関係ない記事で申し訳ございません。
ブログの趣旨である彼との日常に関しては、変わらず仲良くやっております。
ただ、生活環境は大きな節目を迎えて変わりました。
その事については、また時間があれば書きたいと思います。

