正月明け、昨年亡くなった母さんの墓参りを家族でしてきた。
その晩、父さんと夜な夜な話し込んだ。
私が実家を出る前は父さんも会社員現役で、お互いに遅くに帰り仕事の話やスタンスをよく話をしていた。
今の実家には妹夫婦が半二世帯で済んでいるため、そんな機会もなくなっていた。
実家にいる時は、まったくお酒を飲まなかった父さん。私はてっきり父さんがお酒が嫌いなものだと思い込んでいた。お酒は付き合いだけかなと。
父さんはお酒が実は好きで、ただ実家だと飲む相手が居なかったから、口にしなかっただけのようだった。
正月という事もあり、軽くお酒を交し合い久々に色々な話をした。
私は今の自身の仕事の進め方など、すっきりせずに悩んでいた。
父さんは学生時代から外交官になる事が夢だった。ただ外交官を目指したがその夢は叶えられなく、当時は小さな文具メーカーの貿易部に就職した。
入社して研修が終わり、新規開拓班として単独でアフリカへ送り込まれた。今の私よりも全然年下の父さんがだ。
父さんはアフリカで2年間の業務命令でアフリカの新規開拓を行っていたが、1年間はまったく数字もだせず、ましてや当時のアフリカは民族戦争など紛争が絶えない状況だったようだ。
アフリカのある国で事務所をつくっても、他国へ行っている間に事務所が空爆にあったりと、今では考えられない状況を乗り越えていく話を自慢でもなく淡々と話してくれた。
そんな父さんの業務命令は2年だったが、父さんは夢中で仕事に取組み、2年の命令を忘れてしまい、いつの間にか2年以上アフリカの国で文房具の営業を行っていたそうだ。
まだインフラの整っていない当時の唯一の連絡手段は電報。父さんはアフリカ各国を転々と営業をしていた為、営業報告は電報で流すが、相手からの連絡は次の国に行っていたので、受け取ることすらえきなかった。
そんな父さんはアフリカで、こんな営業をしてえいた。
アメリカやヨーロッパの世界的な文具メーカーには零細の日本のメーカーが太刀打ちできるはずがない。父さんは、今では当たり前になっているが、おそらく日本で初めて広告や販促をアフリカで行った日本人というのは間違いない。
父さんが行った工夫は沢山あったが、その中の一つを今回は紹介したい。
①自社の商品を知ってもらう為に、ラジオ局と日本の文化であるラジオ体操で広告を行った。
当時のアフリカでは教育を受けられる人はおらず、また教師と生徒も一体感がなく、教育を受けられる状況ではなかったようだ。
父さんはアフリカのラジオ局に依頼し、皆で集まってラジオ体操を学校でする呼びかけを提案した。またその時に自社と商品のテーマソングを学校の先生につくってもらい、それを毎朝ラジオと学校で流したそうだ。
生徒達は、意味もわからないテーマソングをいつの間にか口にするようになり、ラジオ体操も定着し、皆が集まる場を設ける事に成功した。
そこで父さんは、自社商品をつかって風景を描く校外授業を行った。当時のアフリカでは、そんな文化もなく、また絵を描いた生徒が楽しそうにするイメージすら教師にはわかなかったようだ。
ただ父さんが提案したラジオ体操で人が集まるなかでのコミュニケーションは非常に高まったのは間違い事実だった。
校外授業は生徒たちはイキイキと風景を描き、その文房具はもちろん父さんの自社商品だ。
また生徒たちの絵でコンテストを開き、展覧会を行い町の人がそれをみれる機会を与えた。
展覧会では自分の子供の絵をみて、喜ぶ親の顔がたくさんあり、大いに盛り上がったと聞いている。
父さんは展覧会でコンテストを開き、賞をつくり賞品に自社商品をプレゼントした。もちろん参加賞もつくり、最低限絵をかける鉛筆などを進呈をした。
父さんは今では普通になりつつある「ラジオ広告」「タイアッププロモーション」「サンプリングプロモーション」「PRプロモーション」など様々な広告・販促手法を自身の感覚で行っていた。
私はとても驚いた。
成果はというと、父さんが学校で行った取り組みで、自社の商品の認知度は飛躍し、絵を描く文化をしった子供たちをはじめ一般家庭では、父さんの文房具をこぞって買ったそうだ。不振だった父さんの営業成績ももちろん向上した。
百貨店ではラジオ体操と自社商品のテーマソングを流し、学校の美術の先生が進んで父さんの営業のサポートを行い、絵を描いて来店客を楽しませたそうだ。
百貨店でも一流海外メーカーの文房具ではなく、もちろん父さんの商品が売れに売れた。
またその話を聞きつけた他地域・近隣諸国にも父さんの噂は広がり、同じような取り組みがアフリカで広がり、父さんのビジネスは飛躍した。
最終的にはアフリカの各国政府からも声がかかり、父さんはアフリカでの存在感を大きくしていったようだ。
父さんの若かりし時の話を私は初めて聞いた。とても驚いた。私は広告業界で仕事をしている。特に販促を得意としている会社に勤務しているものあり、当時の父さんの創意工夫には感服した。
また自身の業務についても、父さんから何を受け継いでいるのか分からなかったが、広告業界でマス広告を取り扱う会社ではなく、販促という実売に結びつかせる広告をビジネスとしている私に共通点が生まれ、非常にうれしい気持ちにもなった。
父さんに数字をあげる為の工夫について質問した。父さんの答えはとてもシンプルだった。「数字をあげたい気持ちはあったが、現地の人がどのようにしたら笑顔になるか?ためになるか?ばかり考えてえいたら自然と結果がでたのだよ。」
自身の悩みも、そこにあった。自身も広告業界で営業という役割を担っているが、数字をつくるのは得意な方だ。
ただそれがクライアントや生活者の役に立つ広告・販促活動になっているか?という疑問だ。
企業として収益は事業を続けていくは一番大切。ただ数字だけを追い求めていくのに疑問を感じていた。
広告業界の人間として、クライアントの販管費で収益をつくっているので、効果を追求しないで数字に走ってしまっては、いけないと感じていた。
創業社長は「生活者視点の広告活動」「耳をつかって仕事をする」とよく口にされていた。
私は父さんの言葉を聞き、自身の行動が自分理念、企業理念と離れた行動をしていたが為に、バランスを崩して疑問も持っていた事に気付かされた。
父さんとの息子の会話から生まれた共通点。今回は1回目として次回に記録していこうと思う。
その晩、父さんと夜な夜な話し込んだ。
私が実家を出る前は父さんも会社員現役で、お互いに遅くに帰り仕事の話やスタンスをよく話をしていた。
今の実家には妹夫婦が半二世帯で済んでいるため、そんな機会もなくなっていた。
実家にいる時は、まったくお酒を飲まなかった父さん。私はてっきり父さんがお酒が嫌いなものだと思い込んでいた。お酒は付き合いだけかなと。
父さんはお酒が実は好きで、ただ実家だと飲む相手が居なかったから、口にしなかっただけのようだった。
正月という事もあり、軽くお酒を交し合い久々に色々な話をした。
私は今の自身の仕事の進め方など、すっきりせずに悩んでいた。
父さんは学生時代から外交官になる事が夢だった。ただ外交官を目指したがその夢は叶えられなく、当時は小さな文具メーカーの貿易部に就職した。
入社して研修が終わり、新規開拓班として単独でアフリカへ送り込まれた。今の私よりも全然年下の父さんがだ。
父さんはアフリカで2年間の業務命令でアフリカの新規開拓を行っていたが、1年間はまったく数字もだせず、ましてや当時のアフリカは民族戦争など紛争が絶えない状況だったようだ。
アフリカのある国で事務所をつくっても、他国へ行っている間に事務所が空爆にあったりと、今では考えられない状況を乗り越えていく話を自慢でもなく淡々と話してくれた。
そんな父さんの業務命令は2年だったが、父さんは夢中で仕事に取組み、2年の命令を忘れてしまい、いつの間にか2年以上アフリカの国で文房具の営業を行っていたそうだ。
まだインフラの整っていない当時の唯一の連絡手段は電報。父さんはアフリカ各国を転々と営業をしていた為、営業報告は電報で流すが、相手からの連絡は次の国に行っていたので、受け取ることすらえきなかった。
そんな父さんはアフリカで、こんな営業をしてえいた。
アメリカやヨーロッパの世界的な文具メーカーには零細の日本のメーカーが太刀打ちできるはずがない。父さんは、今では当たり前になっているが、おそらく日本で初めて広告や販促をアフリカで行った日本人というのは間違いない。
父さんが行った工夫は沢山あったが、その中の一つを今回は紹介したい。
①自社の商品を知ってもらう為に、ラジオ局と日本の文化であるラジオ体操で広告を行った。
当時のアフリカでは教育を受けられる人はおらず、また教師と生徒も一体感がなく、教育を受けられる状況ではなかったようだ。
父さんはアフリカのラジオ局に依頼し、皆で集まってラジオ体操を学校でする呼びかけを提案した。またその時に自社と商品のテーマソングを学校の先生につくってもらい、それを毎朝ラジオと学校で流したそうだ。
生徒達は、意味もわからないテーマソングをいつの間にか口にするようになり、ラジオ体操も定着し、皆が集まる場を設ける事に成功した。
そこで父さんは、自社商品をつかって風景を描く校外授業を行った。当時のアフリカでは、そんな文化もなく、また絵を描いた生徒が楽しそうにするイメージすら教師にはわかなかったようだ。
ただ父さんが提案したラジオ体操で人が集まるなかでのコミュニケーションは非常に高まったのは間違い事実だった。
校外授業は生徒たちはイキイキと風景を描き、その文房具はもちろん父さんの自社商品だ。
また生徒たちの絵でコンテストを開き、展覧会を行い町の人がそれをみれる機会を与えた。
展覧会では自分の子供の絵をみて、喜ぶ親の顔がたくさんあり、大いに盛り上がったと聞いている。
父さんは展覧会でコンテストを開き、賞をつくり賞品に自社商品をプレゼントした。もちろん参加賞もつくり、最低限絵をかける鉛筆などを進呈をした。
父さんは今では普通になりつつある「ラジオ広告」「タイアッププロモーション」「サンプリングプロモーション」「PRプロモーション」など様々な広告・販促手法を自身の感覚で行っていた。
私はとても驚いた。
成果はというと、父さんが学校で行った取り組みで、自社の商品の認知度は飛躍し、絵を描く文化をしった子供たちをはじめ一般家庭では、父さんの文房具をこぞって買ったそうだ。不振だった父さんの営業成績ももちろん向上した。
百貨店ではラジオ体操と自社商品のテーマソングを流し、学校の美術の先生が進んで父さんの営業のサポートを行い、絵を描いて来店客を楽しませたそうだ。
百貨店でも一流海外メーカーの文房具ではなく、もちろん父さんの商品が売れに売れた。
またその話を聞きつけた他地域・近隣諸国にも父さんの噂は広がり、同じような取り組みがアフリカで広がり、父さんのビジネスは飛躍した。
最終的にはアフリカの各国政府からも声がかかり、父さんはアフリカでの存在感を大きくしていったようだ。
父さんの若かりし時の話を私は初めて聞いた。とても驚いた。私は広告業界で仕事をしている。特に販促を得意としている会社に勤務しているものあり、当時の父さんの創意工夫には感服した。
また自身の業務についても、父さんから何を受け継いでいるのか分からなかったが、広告業界でマス広告を取り扱う会社ではなく、販促という実売に結びつかせる広告をビジネスとしている私に共通点が生まれ、非常にうれしい気持ちにもなった。
父さんに数字をあげる為の工夫について質問した。父さんの答えはとてもシンプルだった。「数字をあげたい気持ちはあったが、現地の人がどのようにしたら笑顔になるか?ためになるか?ばかり考えてえいたら自然と結果がでたのだよ。」
自身の悩みも、そこにあった。自身も広告業界で営業という役割を担っているが、数字をつくるのは得意な方だ。
ただそれがクライアントや生活者の役に立つ広告・販促活動になっているか?という疑問だ。
企業として収益は事業を続けていくは一番大切。ただ数字だけを追い求めていくのに疑問を感じていた。
広告業界の人間として、クライアントの販管費で収益をつくっているので、効果を追求しないで数字に走ってしまっては、いけないと感じていた。
創業社長は「生活者視点の広告活動」「耳をつかって仕事をする」とよく口にされていた。
私は父さんの言葉を聞き、自身の行動が自分理念、企業理念と離れた行動をしていたが為に、バランスを崩して疑問も持っていた事に気付かされた。
父さんとの息子の会話から生まれた共通点。今回は1回目として次回に記録していこうと思う。