THE MANIPULATER & THE SUBSERVIENT
あ
「それでは授業をはじめます」
その一言から始まったこの授業だが俺たちは先生がやる授業を受けるのは初めてだ。
髪は左目を隠し全体的に長い。かろうじて右目は見える程度。耳を覆い肩まで伸びきったそれは先生の性格を上手く表現できているんじゃないだろうか。
視線を下に少しずらす。全身黒一色のスーツできめこんでいる。上はカッターシャツ。第二ボタンあたりまで開け放している。下は足の長さを強調するような細身を帯びたズボン。見るからに病的な感じ。
こんな浮世離れした先生は臨時教師。前田先生の突然の休暇によって派遣されたようだ。
「一つ質問していいかな? 今、君たちは音楽の授業を受けている。音楽の授業では当たり前のように出てくる音符。これって一体なんだろう? そこの君わかるかい?」
いきなり質問だ。ピアノにもたれかかりながら加藤を指差す。指名した割にはあまりいい答えを期待せず、ただなんとなく問いかけた。そんな感じのする質問の仕方。
「え? あ……」
突然の質問に戸惑う加藤だが少し間を置き質問に答える。
「音の長さとか強弱とかそういうのを表しているんじゃないんですか?」
喜びも落胆もせずただ無感情の笑みを浮かべ先生は加藤に言う。
「模範的な回答をありがとう。おそらく君の言っていることは正しいんじゃないかな。でも違う。音符はただの棒と丸だよ」
なんだよそれ。まんまじゃん。加藤も度肝を抜かれたのかぽかんと口を開いたまま唇を結ぼうとしない。多分、みんな同じ反応をしているんじゃないだろうか。
「国語の教科書あるだろ? 教科書に載っている言葉も同じで立ての線と横の線が重なり合っているだけ。ただそれだけなんだよ。ただ君たちに履き違えてもらいたくはないんだがそれは人の手に触れられるまでの話だ。人の手に渡りそこに感情を吹き込むと、やっと意味がでてくる。別に音符も文字もなくてもいい。しかし、それを人に伝えようと思うとどうしても形にしなければいけない。だからそれは存在する。形ないものに形を与える……よくひとがやることだよ」
先生はピアノから離れ黒板の前に移動する。
「びっくりしたかい?」
いきなり黒板をおもいっきり殴られれば誰でもびっくりするよ。それもすごい音がしたし。この先生一体何者?
「この音を記号で表すならばフォルティッシモ。こんな簡単なことでも楽譜にすると人にはなかなか上手く伝わらない。読み取る側もそれなりの読解力が必要になる。言葉だって同じさ」
またピアノまで移動し次は椅子に座る。そして鍵盤に先生の繊細そうな綺麗な指が触れる。
触れた瞬間、ピアノはまるで命を吹き込まれたかのように音を奏でだす。それは少女が流れる小川に足をつけ一つ一つの水の流れを楽しんでいるような、そう思わせられる演奏だ。
両手をあげ思いっきり鍵盤に指をいや、拳を打ち付ける。ものすごい音がなる。ピアノが壊れるんじゃないか? と心配になってしまう。高い音と低い音を上手く使い分け拳で叩いている。先ほどの少女に一体何が起きたのだろうか? 誰かに襲われたのか、はたまた誰かに対して怒っているのか……
それでも先生の演奏はその狂気を緩めることはない。それよりもさっきからだんだんと強くなっていく。ピアノは悲鳴をあげ、許してくれ許してくれと先生にその言葉を投げかけている。
「こんな風に演奏して見せるのは簡単だ。しかし、それを相手に演奏ではなく音符として伝えるのはすごく困難になる。楽譜をみた演奏者はその作者の思う通りに弾けているのか? と思い悩む。これも違うあれも違う。だんだんと先のない闇へと迷い込んでいく。そうやって音楽は奏でられる。僕たちはそれを皆に伝えるのが仕事だ。そのためには音という概念を形にした音符で伝えるしかないんだよ」
音符というもののことをそこまで深く考えたことはなかったが確かにそう言われればそう思えてくる。
「先生、楽器とはなんですか?」
佐藤さんが弱々しく手を上げ更にそれ以上に怯えながら先生に質問する。
「奴隷」
ピアノに頬杖をつきながら佐藤さんの質問に答える。この先生おかしい。何を言ってるんだ?
「恋人」
さっきの言葉に比べるとかなり距離が開いたな。
「他人」
もう意味がわからない。
「その時々によってかわるよ。楽器は楽器であってそれを演奏する人によって、更にその感情、そのまた更に心境によって変わってくる。だから音楽は面白いんだよ」
この人が言ってる意味はいつかわかるのだろうか?
「人と人の関係ってなんだい?」
佐藤さんは逆に質問される。
「支えあって強く生きていくこと……だと思います」
「そう。自分のためにね。誰かに時間に取り残されないように合わせて生きていく。自分勝手な生き物なんだよ。それでも築かれてきた歴史は覆せないから何かを我慢して生きていく。人と楽器の関係もそういうもんだよ」
何書いてたんだ? おれw
