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愛知県の三河地方山間部に作手(つくで)という地域がある。戦国時代、地形を巧みに利用した籠城戦の驚異的な強さと強大な勢力に挟まれた環境を見事に立ち回り、存続繁栄した奥平氏一族の本拠地である。同じく信州の山間部上田を本拠地とした真田氏と比べると知名度は低いが、似た環境にあって真田父子に勝るとも劣らない知勇兼備の一族であったと私は考えている。
戦国の奥平氏は貞勝-定能-信昌三代の政略と合戦に集約される。奥平貞勝(1512-1595)は、享禄時代(1528-1532)には松平清康に従ったが森山崩れで清康が横死すると駿河から三河に勢力を伸ばしてきた今川氏に転属して織田信秀の三河侵攻(小豆坂合戦1542)に出兵した。
その後刈谷城主・水野信元(1520〜22頃?-1576)の勧誘により今川氏を離反し織田氏に属する。弘治2年(1556)岡崎にある今川氏の拠点を攻撃し、宝飯郡近くまで侵攻した。その後今川義元(1519-1560)の反撃に遭い東三河を失陥、侵攻に功のあった弟貞直を処刑して再度今川氏に従う事となった。
永禄3年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が討死すると三河の諸豪族は徳川家康に降るが貞勝は静観、最後まで抵抗していた宝飯郡の牧野氏が転属
した段階で徳川氏に臣従した。
今川氏を滅ぼした武田信玄(1521-1573)が元亀2年(1571)から三河侵攻の意志を鮮明にすると、嫡子定能(1537-1599)の反対を押し切り武田氏に服属した。
天正元年(1573)5月に武田信玄が三河の陣中で病没したことを確認した上で6月下旬、かねてより徳川氏に属することを主張していた定能がその嫡子信昌と末弟貞治(?-1600)を含む家中の大半を引き連れて武田氏を離反した。その代償として3人の人質・定能の次男仙千代13歳、奥平勝次の次男虎之助16歳、奥平貞友の娘おふう16 歳が奥三河鳳来寺付近で処刑された。貞勝は次子常勝と武田氏に留まったが、従う者は少数であった。
その後武田氏と織田徳川連合軍が激突した長篠合戦では定能らの奮闘により武田氏を敗退させ、信昌は信長・家康に賞賛された。この後信昌は家康の長女亀姫と結婚し着実に家康の期待に応えていく。
貞勝・常勝父子は武田方として長篠合戦に参加したようだが、武田軍敗退とともに甲斐に退去した。更に天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると定能の嘆願により助命され所領の額田郡に隠棲、貞勝に従っていた常勝は処刑された。この地で文禄4年(1595)に没。享年84。一族縁者の犠牲を払い当時では驚異の長寿を全うした。
岡崎市明見町にある宮崎神社
右側通路の先に貞勝の墓がある。
案内板から一段上がった所に貞勝の墓石がある。
隣の墓石は一族のものであろう。
奥平氏の本拠地 亀山城跡の案内板(新城市作手)
亀山城跡本丸
本丸からの眺望、田園風景が広がる高原の平地
三河地方を代表する矢作川と豊川の分水嶺
これに男川を加えた三川が地名三河の由来という
豊かな水資源に恵まれ、高原ながら広大な耕作地を有する立地条件が長年の独立勢力を保持できた要因であろう。
信玄没後の武田氏の没落を予見し徳川氏への臣従を決断した定能と、長年臣従と離反を繰り返して一族を存続させてきたが最後は武田氏を離れられなかった貞勝の、親子で袂を分かつことになった判断の難しさに彼らの生き様を考えることができたお墓参りとなった。