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どうも、みらいんです。
今回は水瀬いのりさんの3rdアルバム『Catch the Rainbow!』に収録されている『約束のアステリズム』ついてのお話です。
『約束のアステリズム』の作詞作曲編曲は全て藤永龍太郎氏で、藤永氏は水瀬いのり楽曲の中だと『約束のアステリズム』の他に『星屑のコントレイル』『三月と群青』『まっすぐに、トウメイに。』の作詞作曲編曲を担当されていますね!
『約束のアステリズム』と聞けば、エレクトロなロック調なサウンドだったり、「wow wow」といったライブでのファンの掛け声を連想する方が多いと思いますが、歌詞も近未来の七夕感が溢れ出ており、もうずっとこの曲の中にいたい!ってくらい個人的に好きな曲です。
そこで、今回は私が考えている『約束のアステリズム』がどんな曲なのか簡潔に書いていければいいなと思います!ここに書かれていることは、個人的な意見なので参考までに読んでもらえると嬉しいです!
(目次)
1.七夕伝説
2.『約束のアステリズム』が意味するもの
3.『約束のアステリズム』と『星屑のコントレイル』
4.『約束のアステリズム』と『三月と群青』
2.『約束のアステリズム』が意味するもの
3.『約束のアステリズム』と『星屑のコントレイル』
4.『約束のアステリズム』と『三月と群青』
1.七夕伝説
早速ですが、皆さんは”七夕伝説”というものをご存知でしょうか?
七夕伝説というのは、七夕にまつわるお話のことで、夏の大三角形の「アルタイル」「ベガ」「デネブ」にとても関連しています。地域や国によっていろんな七夕伝説があるのですが、今回は日本で最もポピュラーなものを簡単に紹介したいと思います。
七夕伝説は、織物が得意な「織姫」と働き者の牛飼いである「彦星」の物語です。夏の大三角形に当てはめるならば、織姫が「ベガ」で、彦星が「アルタイル」ですね!
織姫の父親は天界の最高神である「天帝」で、天帝は毎日楽しみもなく、ただ布を織る暮らしを続ける織姫を可哀そうに思っていました。
そこで、天帝は天の川の東側に住んでいた織姫と、天の川の西側に住んでいた牛飼いの彦星を会わせました。すると、瞬く間に織姫は彦星に恋に落ち、二人は夫婦となりました。しかし、新婚生活に夢中になった織姫は織物をしなくなり、彦星も働かなくなってしまいました。
それに激怒した天帝は、天の川に架かる橋を壊してしまいました。そして、二人が真面目に働くならば、年に一度だけ七夕の日に天の川を渡って逢うことを許したのでした。
というのが大体の流れなのですが、ロマンチックなお話を期待していた人からしてみれば、自業自得というかちょっと後味が悪いお話に聞こえてしまうかもしれませんね笑
ちなみに、七夕の日に天の川に橋を架けるのはカササギという鳥で、翼を広げて、その翼を橋にするみたいです。このカササギが夏の大三角の一つである「デネブ」だと言われています。デネブは天の川の中に位置していると聞いたことがある人も多いでしょう。
また、七夕の日に雨が降ると、天の川の水かさが増してしまい、橋を架けることができず、織姫と彦星は会えないことも有名ですね。
(2)『約束のアステリズム』が意味するもの
まず”アステリズム”というのは、夏の大三角や冬の大三角、北斗七星といった星群のことです。
『約束のアステリズム』は七夕の曲なので、ここでのアステリズムは「夏の大三角形」と捉えることができます。
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夏の大三角形は『アルタイル』『ベガ』『デネブ』の3つの恒星から構成されています。先ほども述べた通り、『アルタイル』は「彦星」、『ベガ』は織姫、『デネブ』は天の川に翼を広げて橋を架けるカササギです。
『約束のアステリズム』の歌詞は、”僕(彦星)”と”君(織姫)”について書いたものとなっており、一人称が「僕」であることから、この曲は彦星目線の曲であることがわかります。
また、「雨の乾いた匂い 夏の始まる音がした」「楽しいのはいつも一瞬だった 神様が少しだけ許した時間」「暗い海の上を 横切る飛行機雲が一つ」という歌詞から、『約束のアステリズム』が七夕の曲であることが推測されますね。
”夏の始まる音”というのは、イントロのことでしょうか。”神様が少しだけ許した時間”というのは七夕の日の夜のことで、”飛行機雲”は夜空に見える天の川であるとわかりますね。
余談ですが、私はもう本当にこの曲のイントロが大好きで、最初のギターの音色に合わさる流れ落ちるような星のようなピアノの音だけで、頭にエモみ100%のパンチをくらって倒れそうだったのに、更にそこにEDMサウンドが奏でられて、私が思い浮かぶ”星空”の音楽の表現にぴったりすぎて、無事エモ死しましたね。
次に、「君は無邪気なままの いつも一等の光で 笑う癖も何にも変わらないね」の歌詞の部分なのですが、”一等の光”というのは「織姫(アルタイル)」のことでしょう。
アルタイルもベガもデネブも全て一等星なのですが、明るさでいえば明るい順に「ベガ→アルタイル→デネブ」という並びになります。歌詞は”彦星(アルタイル)”目線なので、彦星にとっての一等の光は、アルタイルよりも明るい”織姫(ベガ)”という捉え方ができますね。
続いて『約束のアステリズム』の”約束”についてなのですが、「だからまたね 君に叫ぶよ」「だからまたね 二人の約束ね」「いつかまたここで逢えるように」という歌詞から、七夕の日にまた逢おうという約束だと思われます。
「見えなくなっても 何も聞こえなくなっても 君まで届くように」とありましたが、「wow wow」という叫びは、姿が見えなくて声も聞こえない君に向けたものなのかもしれませんね。
最後に、『約束のアステリズム』において「デネブ」とは一体何を指すのでしょうか?
「アステリズム(夏の大三角形)」なのですから、「デネブ」の存在を示さなければアステリズムとは言えません。「アルタイル」と「ベガ」の意味するところはわかりやすかったですが、「デネブ」だけは歌詞に明記されていないので少しわかりづらいですね。
私は、「デネブ」は『星屑のコントレイル』における「いつか見つけた一番星」だと思っています。
コントレイルというのは"飛行機雲"という意味で、星屑のコントレイルは"天の川"と捉えることができます。
「デネブ」は天の川の中に存在する一等星で、天の川に架けられた橋です。『星屑のコントレイル』は、僕と君が一番星に向かって一緒に進んでいこうと誓う曲。
つまり、『星屑のコントレイル』という曲は、僕と君の想いが重なる場所であり、僕と君を繋ぐ橋のような存在と捉えることもできるのではないでしょうか。
このように、『約束のアステリズム』と『星屑のコントレイル』や『三月と群青』などの他の藤永龍太郎氏が手掛けた曲には何らかの関連性があると思われます。その点について第3章、第4章で軽く語っていきたいと思います。
(3)『約束のアステリズム』と『星屑のコントレイル』
『星屑のコントレイル』は、水瀬いのりさんの1stアルバム「Innocent flower」に収録された曲です。
前章でも述べたように、『星屑のコントレイル』は”天の川”という意味で、”僕(彦星)”と”君(織姫)”が天の川を繋げてくれる一番星(デネブ)に向かって一緒に進んでいこうと誓う曲だと考えることができると私は思っています。
そんな『星屑のコントレイル』と『約束のアステリズム』の関連性を歌詞を比較しながら見ていきましょう。
上記の歌詞を比べると、『約束のアステリズム』における”飛行機雲”は”天の川”のことであり、『星屑のコントレイル』を表していると思っています。
『星屑のコントレイル』で一番星を追い求めたのは、二人を繋げてくれる存在がデネブだったから。『約束のアステリズム』において、二人はデネブに到達し、無事逢うことができましたが、別れの時間は迫っていました。
『星屑のコントレイル』では”終わらない夢”という表現が出てきてるのに対して、『約束のアステリズム』では”終わらない夢”なんてないんだという現実を受け入れているような感じがします。
それは僕が「大人」になったから。「大人」になったからこそ、理想ではなく現実を見るようになったのだと思われます。
『星屑のコントレイル』では「また笑い合おうよ」と言っていて、『約束のアステリズム』では「笑う癖も何にも変わらないね」と言ってることから、君(織姫)はよく笑う女の子であることが連想されますね。
また、「無邪気」という言葉は”カスミソウ”という花の花言葉でもあります。七夕はカスミソウの日でもあり、白いカスミソウが星屑に似ていて、七夕に登場する天の川を思わせることが由来となっているそうです。
以上から、『約束のアステリズム』は、もしかしたら『星屑のコントレイル』の後のお話なのかもしれませんね。
(4)『約束のアステリズム』と『三月と群青』
『三月と群青』は、水瀬いのりさんの2ndアルバム「BLUE COMPASS」に収録された曲で、僕が君に対して告白するか葛藤しながらも最後は想いを伝えるという恋愛ソングです。
『三月と群青』と『約束のアステリズム』で比較してほしいのは、「大人」と「子供」の違いです。
『三月と群青』が「子供」であるならば、『約束のアステリズム』は「大人」となっており、この2曲の結末も「君に対して想いを伝えるかどうか」という点で明確な違いが描かれています。
では、歌詞を比較しながら見ていきましょう。
『三月と群青』では、君のことが好きだけれど、もし想いを伝えてしまったら今の関係性が壊れてしまうと恐れ、なりたくもない「大人」になろうとして、自分の想いを心の内に閉じ込めようとします。
一方『約束のアステリズム』では、君に想いを伝えたいと思っているが、もうすでに「大人」になってしまっているので、想いを伝えたくても伝えられないという状況になっています。
まだ”思い出”にはなっていない『三月と群青』と、否応なしに”思い出”に変わっていく『約束のアステリズム』の対比性も見えますね。
どちらも僕が心の中で本当にやりたいことを自問自答する場面。
『三月と群青』では、最初こそ「大人」になろうとして笑顔で別れようとするが、別れてしまえばもう二度と会うことができない。「だけど本当はわかっていたんだ」という歌詞からも、僕がずっと現実から目を背けて必死に「大人」になろうとしていたことが読み取れます。でも、そんな事実を改めて目の前にして、「大人」になるのをやめて、等身大の「子供」として想いを伝えることを決心しました。
それに対して、『約束のアステリズム』では「ホントはもっとちゃんと君に話したい言葉があるんだ」と前置きしながらも、「だけど、ええとやっぱり うん、なんでもないや」と想いを伝えようとして、結局「大人」のまま想いを直接言葉で伝えることをせず、次に逢った時に伝えることにしました。
思い出になるのは嫌だから「子供」として、たとえ自分の想いが叶わなかったとしても君に想いを伝えた『三月と群青』。
想いを伝える代わりにまた逢えると信じて、「だからまたね」と再会の約束を「大人」として君に叫んだ『約束のアステリズム』。
『三月と群青』の”群青”は、想いを伝えたことで関係性の停滞が壊されたことによる夜明けの空の群青色と青春を表現するのにふさわしい群青色のダブルミーニングがあると思っています。
青春は言ってしまえば、まだ自分の気持ちに嘘を付ききれずに「大人」になれない「子供」のことでもあります。だからこそ、青春はとても素晴らしいもので「大人」に対して忘れていた純粋さ、必死さを思い出させてくれる。
『三月と群青』において、「大人」になるということは別れる時に「またね」と言って笑顔で別れることだと描かれていました。それが「大人」として本当の気持ちを隠して、想いも夢も捨てることなのだと。
でも、『約束のアステリズム』では想いを伝えなかったものの、「またね」と""叫んだ""。
""言う""のではなく、""叫んだ""。
「見えなくなって 聞こえなくなっても 君まで届くように」再会の約束を""叫んだ""。
確かに僕は「大人」になったのかもしれない。想いを伝えることができなかったのかもしれない。でも、その代わりに叫んだ。ただ笑顔で別れるのではない。「子供」のようにまっすぐに、純粋に、必死に、がむしゃらに、また逢えるように、「大人」に抗うように、叫んだのです。
私は、それが嬉しかった。「大人になんかなるなよ」ってこの曲が伝えてくれてる気がして。
「大人」になればなれほど、人はより自分の想いを隠すようになっていく。「子供」の頃に持っていたものも気づけば失っていたりもする。それは良いことでもあるかもしれないし、悪いことなのかもしれない。でも、きっと「大人」になることだけが正解じゃないのだと私は思っています。
「子供」で居続けることも一つの正解かもしれないし、もしかしたら子供かよって笑われるかもしれない。でも、「子供」にしかできないこともあると思う。もちろん「大人」にしかできないこともある。
けれど、「大人」になって物分かりのいい人間になって、どうせできっこないとか無駄だとか言って物事を諦めるようになっていって、それが本当に正しいことなのかって時々思うことがあるんです。その度に、まっすぐでいることの大切さ、時には何もかも捨ててがむしゃらに何かを追い求める泥臭さといったものがきっと何かを突き動かすのだと私は思っています。
だからこそ、『約束のアステリズム』は「大人」に対する一種のアンチテーゼなのかもしれない。
よければ皆さんも「大人」とは何か、「子供」とは何かについて考えてみてください!
(余談)
『三月と群青』の歌詞に「零れた星屑」というワードがあり、藤永氏はこれについてどこか匂わせるように入れたと言及されているので、今回は本題とずれるので書きませんが、何か『星屑のコントレイル』と関連性を考えてみると面白いかもしませんね!