小学校4年生から6年生までの担任だったW先生。
学生時代国体のスキー選手だったというもっぱらのうわさ。

昭和30年の町村合併で山梨県の峡東地区三村が統合して町になったが、僻地校の教育設備はこれからという時代。赴任してくる多くは、新任か退職間近か、地域住民でもある教師だった。W先生は盆地の真ん中の市から自家用車で通勤していた。

ちょうど私の学年は、児童数が少ないので1クラス45人の大規模クラス。あと5人児童がいれば2クラスになったという。

4年生になると、体が大きくなり、普通教室は手狭で机といすと児童45人でキツキツ。冬にだるまストーブが入ると、教壇以外に隙間がない。狭い教室で一日過ごすのは児童も教師も息苦しく、たった10分の休憩時間も校庭に出て遊んだ。運動が得意の先生も校庭で一緒に遊び、ドッチボールなど勝負が決着しないと、ゲームが終わるまで休み時間が延長した。

理科、図工の時間は天気さえよければ校外授業になり、川や山、近所の寺に出かけて行った。

サッカーのゴール、ソフトボールのミットやグローブもなく、児童が使える謄写版もない。ワラビやフキノトウを理科や体育の時間に採りに行き、先生が知り合いの八百屋に買ってもらったり、廃品回収をして資金稼ぎをして、4年生の3学期にはクラス専用の謄写版の道具がそろった。鉄筆、やすり板が個人個人に渡され、学級新聞や、歌集を児童で作った。

W先生は、どうやって教頭や校長、他の教師を説得したんだろう、いまだに謎。

11月になると図画工作で竹スキーづくりを開始。地域には竹やぶがあちらこちらにある。父兄の協力で、竹を切り、割り、竹の先を曲げてもらった。林業でトラックのある家庭から古タイヤを、製材所から乾いた木をスキー板として加工してもらい、スキーづくりが始まる。乾いた竹を板に細長い釘で固定して、タイヤのゴムで長くつでもスキーを履けるように加工した。ストックは細い竹で、持ち手にタイヤゴムを使った。

村の山奥にリフトのない町営の乙女高原スキー場があった。材木運搬用のトラックの荷台に乗って父兄の運転でスキー場に行った。先生は、本物のスキー板とスキーブーツ。児童は竹スキーに長靴。小高い丘の上まで竹スキーで登って、ボーゲンで転び続けたり、そのうち滑って降りれるようになる。かっこよく滑るのは先生だけだったが、それでも山の児童は十分楽しんだ。

その年は私たち4年生だけのスキー教室だったが、翌年からは4年生以上の学年で竹スキーづくりをして雪がある1月、2月にスキー教室が行われるようになった。

W先生は、朝教室に来ると、給食を食べ終わっても教員室に戻らず、ずっと教室にいた。

テストの採点は、答案用紙をお互いに交換して、答え合わせをしながら復習の時間。

何か問題が起こると、班会議やクラス会で、みんなで答えが見つかるまで何日も何日も話し合い、先生が勝手に結論を出すようなことはなかった。

自分の頭で自分の言葉で考え、たとえ少数でも、自分の意見と違っても、友達の意見をよく聞く。自主的に考え、自主的に行動する。みんなで決めたことは、みんなで守る。そんな気風が、少しずつ45人全員の思いになっていった。

嫌いな給食を残しても怒られず、いじめられなくなって、ドンドン学校が楽しくなっていった。今思えば、小学校高学年の3年間は人生最良の時期の一つだったかもしれない。