春。誕生の季節だ。長い冬を終えて、新しい生活を祝うかのように桜が舞う。
春。実に晴れやかだ。猫背のサラリーマンの顔ですら、春の光の中でどこか輝いているように見える。
新しい靴をならして歩く新社会人。ぴちぴちしたOL。いいねえ。

早朝の電車の中は相変わらずぎゅうぎゅう詰めで、人間の極限の密集度に毎日挑戦しつづけているけれど、(不可抗力)それでも、春ってだけで、心なしか車内の雰囲気は暖かいような気がする。これも春のなせる技なのか。恐れ入る。

そうだ。小学生や中学生なんかは、まだ春休みなんだなあ。大体四月の二週目ぐらいから新学期なのだろう。子供同士のグループとか、家族連れ、もちろん大人同士のカップルでも(早く会社行け!)、「今楽園遊園地」は賑わっている。
子供達の目はキラッキラしている。そりゃもう眩しい。

俺は社員控え室の窓から見えるその眩しさに目をくらませながら、制服のチャックを上げた。

「タナカさーん!あ!いた!いきますよ!」
同僚のマスダさんだ。彼ももう既に制服に着替えている。
「あ。はーい。」
俺はスポーツドリンクをがぶ飲みした。「仕事の時間」だ。

俺は何のために生まれて来たんだろう。俺にしかできない何かがあるはずだ。俺には人とは違う才能がある気がする。

これまで生きてきた中で幾度となく、自分の中で繰り返されてきた質問だ。
その昔、小学生だった俺は、生まれついての「正しい子供」だった。人がやらないことは率先してやり、ひとりぼっちの子に積極的に話し掛け、先生の言うことは良く聞き、学級会では積極的に意見を言い、いつも喧嘩の仲裁役だった。
母親は当時担任だったオカダヒロエ先生に、「カズトシ君、将来は大臣か、教授とかになっちゃうかもしれませんね!」と言われ、スキップして帰って来たそうだ。

中学生になっても、俺の「正しい生徒」ぶりは健在だった。まず、だれもやるもののなかった「学級委員」に立候補した。しかし、対抗馬もないまま、不可抗力的なクラス全員一致でトップ当選。俺はちょっと虚しい気もしたが、それでも、クラスのリーダーになれたことは誇らしかった。
ちなみに女子の委員は少しおとなしめで、眼鏡とおさげが印象的な、半田真理子さんだ。思慮深いパートナーを得て、ますます俺のやる気に火がついた。
そして一年間、立派に委員を勤め上げた。先輩にも「田中は、将来の委員長候補だな!」と言われた。俺は自分を誇らしく思った。
しかし、次の年にはクラス替えがあり、今度のクラスは対抗馬だらけだった。俺はあっけなくやぶれて、学校の表舞台から消えた。回り回って俺は図書委員になった。かなり落胆している俺を見て、母親は「図書委員はみんなの知識に貢献する。」と励ました。俺は来年の報復を誓った。

ところが、俺は次の年も図書委員に立候補した。というのも、俺の通っていた中学校の図書館にはマンガも豊富にそろっていた。俺は、「ガラスの仮面」に猛烈にはまっていた。
しかしマンガは貸し出し禁止なので、昼休みとかに生徒同士で回し読みすることになる。当時思春期まっただ中の俺にとって女子の輪の中に入って少女マンガを回し読み、とはあまりに高いハードルだった。
そこで、図書委員になれば、書籍整理にかこつけて、自分の読みたい巻をキープできるというわけだ。俺は主人公に憧れていた。初めての受験の年だったが、図書館で集中して勉強したおかげで、それなりの高校に進学することができた。
高校への入学が決まったとき、俺の心にはある野望があった。
高校に入ると、俺は迷うことなく演劇部に所属した。練習の日には誰よりも早く部質に行ってあめんぼが赤いというような内容のことを叫んでいた。
家に帰っても、欠かさず筋トレに励んだ。いつか、舞台の上で上半身をさらす演技を要求される日も来るかもしれないという憶測からだった。俺は、千の仮面を持っている…そう信じて疑わなかった。


「タナカさん、こういう仕事はもう馴れてらっしゃるんですか?」
シフトに入る直前、俺とマスダさんは楽屋で待機していた。マスダさんは俺に緑茶を入れてくれた。マスダさんは30代後半から40代前半に見える。でも体付きを見るとなかなか良い体をしていそうだ。それとは対照的に髪の毛が少し薄くなっているような気がするのが侘しい。

「もう結構な回数やってますね。学生のときも、部活で舞台に立っていたのでこういう仕事はやりやすいですね。」
ほほぉ~と言って、マスダさんは俺の向かいの簡易なベンチに腰掛け、おいしそうに緑茶を啜った。
「私は昔、体操教室をやってたんですが、自慢なのは体力だけでして。こういう人に見られるのはなかなか慣れないですなぁ。」
そういってまた、お茶をすすった。
「大丈夫ですよ。僕も初めはためらいましたけど、結構板につきますよ。」

楽屋の扉が開いた。
「タナカさん、マスダさんおねがいしまーす!!」
「はーい!」
俺たちはマスクを被った。