【ある漫談哲学】2021年1月31日 多治見往路にて。

 

 

 彼は、“哲学”とやらいうものを持っていた。

いや、確かに哲学なのだろう。

 

その哲学というものの定義は知らぬ

哲学自体がそうなのか、彼の哲学だけがそうなのかは関知しないが、それは実に浅薄なもののようじ感じられた。

 

彼の哲学は例えばこうである。

 

 「いいかい。君が誰かに嫉妬なり激怒なりしてだなあ、「死にやがれ!」なんて物騒な言葉を発したとする。もちろん内心において叫んだとしても同様だ。まあとにかく叫んだとしてだ。それは必ず君の身にも還流して降りかかるんだ。何故だかわかるかね。」

 

そこで僕が透さずこう応える。

 

「それは君、あれだよ。やはり人に親切にして幸福感に浸ってもらえば、その人も僕にだってなぁ・・・」

 

彼のつまらない理屈にどう応じたところで、彼は持論を展開する為に僕を利用しているのだから、僕はワザと稚拙に、的はずれな答えをしてみた。

 

彼は得意満面の笑みを漏らしながら、僕が話し終わる前にはもう、半開きだった口から喋りだした。

 

「君、浅いじゃないか随分と。いいかい、君が誰かに死にやがれと言おうが言わまいが、ソイツは直に死ぬ日が来るだろう?そしてそれは君も同様だ・・・」

 

そのあとも何やら講釈を垂れてはいたが、僕は聞いたフリをするばかりだった。

彼の自称“哲学”とはこんなもので、居酒屋で白痴同士が会話する笑い話のような低水準のものであった。

 

 また、ある日はこうも言った。

 

「“あげまん”という言葉があるだろう? あれは実際どんな女をあげまんというのか?」

 

さすがに、“揚げた饅頭”であるとか、卑猥な3文字を用いるのは憚られたが、いつものように、彼の立たない弁がなるべく立つように、僕は適当に応えておいた。

 

無論彼はその日も得意気に眼を輝かせて、日頃満たされない承認欲求を満たさんとすべく語りだした。

 

「いいかい。人間というものはだね、すべて思いこみなんだから、賢いあげまん女はだね、本当はその男が人並みのつまらぬ男だとわかってはいるんだが、誉めて誉めて木に登らせる。益々男はその気になって稼いだ大枚をせっせと妻に運ぶんだ。なに訳ない話だよ。ちょっとその時に5倍ほど大袈裟に誉め称えて喜んでおけば良いのだから。それでもって、そのよく稼ぐロボットが壊れないようにしっかり食わせて寝かせてメンテナンスをする。他のさとい女に盗まれないように、夜の営みは10倍ほど甘い声をはりあげて、さもあなたほどのテクニシャンでたくましく魅力的な男はいないのだと、腰が抜けて失神でもしたフリをするワケだよ。それがすべて自分の幸福につながるんだから安いもんじゃないか。え?」

 

どうも彼の蘊蓄が哲学というのかは益々怪しくなってきたものの、このあげまん話には些かばかり興味が湧いたのは事実だった。

 

僕が知る限り、旦那の悪い部分を見つけてはダメ親父呼ばわりで否定的。薄給を罵り、足は臭いだの、一緒に洗濯ものを洗うなだの、家族総出でバカにするのが巷で見られる大半の妻が夫に対する扱いだ。

 

結果自分に損が及び、仕事と子育てに追われる内に、気づけば誰にも見向きもされない老婆になって人生を終えていく。

 

夫が実際に能力が高いとか容姿端麗であるとか、タフなテクニシャンであるとかは関係なく、ただひたすら、最後には自分の利益につながることにのみ主眼をおいた、いわゆる“大人の対応”に終始する。それをあげまんと言うのだと。

 

僕はその日から心を入れ替えて、彼の漫談哲学を何倍にも讃えて感心し、「おかげで人生の指針すら確立できた」のだとうそぶいた。

 

周りからは、僕が酔狂だの気が変になっただのと揶揄されたが、上機嫌な彼はそのまま大物代議士にまで登り詰めた。

 

もちろん僕は代議士秘書として、使い切れないほどの収入を得ながら、政財界にも太いパイプを繋いでいった。

 

彼の講演会があると、聴衆は上辺で喝采し、復路愚痴をこぼす。僕が彼を誉め讃え続けたおかげですっかり裸の王様と化した彼は、もう僕の評価と指示なくしては生きていけない傀儡になっていた。