宗教二世問題は親子問題なのかどうかの件。


いろんな意見があるでしょう。

私としては、親子問題でもあるけどそもそもエホバの組織がなかったらこうはなってないのでそれ以前の問題と考えます。


親子問題、として社会も自分も片付けてきたから

ここまで苦しみが長引いてきたわけで。

そろそろきちんと線引きすべきと思います



例の容疑者の件という悲惨な事件が起きてしまって、

これは親子・家庭問題なのかそれとも宗教二世という社会問題なのかと議論されるようになって。

それを親子問題です、って言うのは逆行に感じてしまう。


心が一度死んでやっと立ち直るとこまできて、隠されてきた様々な事実を知って

二世に生まれそこで育つしかなかった自分を一度免責し他責することで

やっと、親や組織への怒りを感じる、そのことが立ち直りの初めの第一歩で。


なのに、そこでやはり親子問題ですと言われたら親を許せない自分が悪いの?

それでは子を愛するゆえなら何をしても許されることになる。救われない地獄。


問題をすり替えることでその人が前に進めるのならそれはそれでいいんでしょう。

個人レベルの話なら。


けどそれでせっかく高まった世間の関心や社会問題としてほ議論を後退させるなら

二世問題「全体」としては弊害。



整理すると、

宗教二世問題とは社会の構造…法律で認められている信教の自由や言論の自由、政教分離といいながら実はそうではないという現状、

また特に日本で歴史的に「家族」「家」を重んじるという法律や風潮から人権意識の未熟さ、

同調し責任の所在を曖昧にする民族性、貧困、弱い立場の人が何かに縋りたい気持ち…その他諸々…

「社会の構造」の歪みとして生まれた問題であるということ。


で、その中に「親子問題」も絡むことで複雑化している、という感じ。


子どものために宗教を信じたんです!と親が言ったとして、

あんな出鱈目な宗教じゃなくても宗教なんて世の中にまともなものはたくさんある。

「宗教」という名がつけば何をしても許されるわけではない。


親も追い詰められていたのだろうけどそこで極端な宗教に縋ってしまったことの背景には、今になって思い返せば親自身の生まれ育ちや性格特性からくる弱さや反社会性、不安な社会情勢、周りに守ってくれるものがなかった社会的孤立があり、


そこに荒唐無稽な「宗教」が信教の自由の法のもとに何も規制されず野放しにされ、そこで出会ってしまう…という構造上の問題が多分にあったのだと思う。