恐らく3~4歳頃から、丹後の峰山町(現在の京丹後市)で古い借家に住んでいました。
父は京都府の公務員、母は内職をしていました。
私は5歳で保育所に入るまでその家で、いつも内職をしている母の背中を見ながら、妹と遊びました。

母の内職が終わると、ピアノのレッスン、数字や英語、ひらがなのお勉強が始まりました。
ピアノの課題曲が上手くひけないと叩かれたり、数字の0が上手く書けず6のように見え、「そんなんじゃ高校も行かれへん」と叱られました。
ほうれん草のアクがピリピリして食べにくく、チビチビ口にしていると「好き嫌いするな」と真っ暗な押し入れに閉じ込められました。

その頃の私は、よく英語で独り言を言っていて、母は自分の教育が良いからだと、誇らしげでした。
母に愛される為には、母にとって自慢の娘でいなければならないと、幼心に感じていました。

夜はいつも、妹と2人先に布団に入り、両親は遅くまで居間で起きていました。
眠れない夜はいつも豆電球の灯りを見つめながら、「生まれてきてごめんなさい」「明日の朝には、消えて居なくなってたらいいのになぁ。そしてみんな、私が居たことも、忘れてしまったらいいのに…」
そんなことを思いながら、涙で豆電球の灯りがぼやけました。