報告と書きましたが、果たして私のことを覚えていてくださる方がいるのか。。
でも書き残しておきたいので書きます。
先日、2月18日に母がこの世を去りました。
10年程前に脊髄小脳変性症と診断され、
その難病は運動機能を徐々に、そしてやがてすべて失うという進行性のもので
この4年間は病院で寝たきり、喋ることも食べることも、ついには見ることも出来なくなりました。
最後の1か月は自発呼吸も出来なくなり、人工呼吸器で酸素を送り「あとは心臓がどこまでもつか」だと言われていました。
排尿がうまくいかなくて身体中パンパンにむくんで、とくに顔は目がどこにあるのかわからないほどに膨らんで母の面影はひとつもなく。
人間って、ここまでボロボロになっても生きてるんだなと、まるで地獄を見せられているような日々でした。
母にとっても残酷な最期としか思えずに、早く終わらせてあげたい気持ちの方が強く「きっともうじきだから頑張れ」と声をかけていました。
生きることを頑張れ、頑張って生きて、とはもうさすがに可哀想で言えなかった。
身体中に溜まりに溜まった水分が限界値に達して、皮膚の弱ってる部分から排出し始めた日、
「今日がヤマかと思います」と主治医から告げられた。
その日は娘の療育があり、市内の医療センターにおりました。
療育を終えて帰宅した頃、父から電話が鳴り「心拍が0に落ちたり戻ったりし始めて、子供たちの到着までこのまま維持させるからすぐ呼んでくださいって言われた!すぐ来い!」と言われ、今度は隣町の医療センターまで急ぐ。
母の病室に着くと父と兄たちがベッドを囲んでいた。
母に繋がれたモニターの心拍は0を示していて、声をかけると微弱に少し数字が戻るがまたすぐ0になる。
到着から3分程するとドクターが病室に入ってきて「揃われましたか?よろしいですか?」と。
家族は泣きながらみんな無言で深く頷く。
「それでは現在時刻でご臨終とさせていただきます」と、人工呼吸器の電源が落とされた。
「18時56分、ご臨終です。よく頑張られましたね」
母のモニターの数値は0から二度と動かなくなり、私はこの世界から母親を失った。
そこからは悲しみに暮れている暇もなく、葬儀の段取りなどで家族が手分けしてすぐに動かなければならなかった。
退院の準備をする者、
葬祭会館とやり取りをする者、
お寺さんに連絡をする者、
先に帰宅して母を寝かせるための準備をする者、
母をいったん家に連れて帰りたかったので、自宅で枕勤めをしてもらうことに。
(通夜より先に枕勤めというお経をあげてもらう儀があることを初めて知る)
通夜も葬儀も滞りなく終え、
母が亡くなるまでの1か月は、夜中や明け方とわず病院から呼び出されることもあり
なんなら誕生日のカウントダウンも母の病室で迎えたり
娘を預けて病院に走る日々で、そんな毎日が習慣化していたので「ああ、もういないんだった」って、静かになった夜に不思議な気持ちでいます。
出棺の時、母の亡骸に涙をポタポタ落としながら頬に手をあて「また会おうね」と伝えた。
火葬炉に入っていく棺を見送るときも、姉は声を出して泣いていたけど私はわりと冷静にしっかり送ってあげられたと思います。
パパにも「もっと泣きじゃくるかと思った」と言われたほど、しっかり立っていた。
だからまだ「うわーん!」って泣けていない。泣き損ねた、が正しいのかな。
今、その哀しみのど真ん中に入ってしまったら、、って思っていたから。もう少し、すべて終わるまでもう少し頑張ってって自分を奮い立たせるようにしていた。
母がこの世界に存在しないという不思議な感覚と、
母がこの世界に存在しないという放り出されたような心細さと、
今はそんな地点です。
まだ、ど真ん中の部分には触れられてなくて、そこに触れようとするのを頭のどこかが拒否してる感じです。
「1年経った頃、もっと寂しいよ」って、娘のクラスの先生が言っていた。
「今はただ日常をしっかり送って」って。
娘でもあり、
母親でもあり、
社会人でもあり、
母が危篤だからと、娘の役割だけで「ヤダーシナナイデー」って泣いてるわけにはいかない日々だった。
母の痛々しい姿に心を痛めながら、
時間がくれば娘を保育園に迎えにいき、ごはんを作って明日を迎える準備。
夜中に母のもとに走ろうとも、朝がくれば仕事に向かわなければならない。
どこにも心を置けない、精神的にも肉体的にも正直しんどい1か月だった。
それが母の死と同時に終わった。
母の葬儀が終わって3日間くらいは、昼も夜もひたすら寝た。
ひたすら寝たし、過食症かってくらいすごい食べて、そんで寝てるんだから普通は痩せるところなはずなのに太ってしまった。
とりあえず、そんな今現在です。





















