チャレンジしないのは人生を諦めているのと同じ
チャレンジしないのは人生を諦めているのと同じ「現代人の多くは、どこかで静かに絶望している」とどこかに書いてありました。多くの人はすでに人生をあきらめてしまっていて、「恐れ」のために動けなくなっています。それは、生きながら少しずつ死んでいくのと同じこと。行動することが恐れをいやすことに気がつかないのです。もし不安や恐れを感じたら、はっきりそれと対峙し、突きぬけなれば、いつまでたっても恐怖心が人生を支配しつづけるでしょう。人は何かに失敗したとき、それを実際よりも深刻にとらえる傾向があります。けれども実際にはすべてがダメということはあまりありません。人の評価を気にするあまり、悪く言う人ばかりが目につき、自分を認めてくれる人がいてもなかなか気づきにくいだけなのです。仕事を失うことが心配になると、失わないようにと身を守ることばかり考えてしまい、もっといい仕事はないかと考える余裕がありません。投資に失敗すればもう投資はこりごりとなり、事業に失敗したら一切のリスクを負うことを恐れ、今後いっさい何もしないことに対する口実にしてしまいます。まるで「手の中にいる一羽の鳥は、やぶのなかにいる二羽よりも価値がある」と言わんばかりに、保守主義のかたまりになってしまうのです。このことわざを信じている人は世の中に実はたくさんいます。しかし、その考えのまちがっている点は、鳥はたとえ手のなかにいても、まだ安心できるものではないということです。状況というのは日々刻々変わるものだからです。大きな事業を成功させた人は、みな例外なく初めに失敗したことがあるといいます。一度ならず二度三度と失敗したにもかかわらず、彼らは最後まであきらめなかったのです。途中でやめてしまった人たちは「安全を選んだ」などと言ったりしますが、その結果、自己を押し殺すことになってしまいました。そういう人たちが他人を悪く言ったり、自分の失敗を世の中のせいにするのはそのためです。リスクは、進んで引き受けようとする人には活気を与えてくれます。リスクこそ、世界がどう機能しているかを体験させ、わからせてくれるものなのです。恐怖感を体験し、くぐり抜けることによってのみ、わたしたちは世の中を知り、その扱い方を学ぶことができるのです。リスクを避けることばかり考え、あいもかわらず恐怖につき動かされて行動していると、世の中、つまり自分の置かれた環境と周囲の人々に支配されて生きることになります。リスクを負うということは、居心地のいい場所から外に出るということ。何事も初めてチャレンジするときは不安なもの。けれども、赤ん坊は何度も尻もちをついても、歩けるようになるまでくり返し立ち上がりますが、そのとき不安は感じてはいません。なぜなら、赤ん坊には邪念がなく、立ち上がって歩けるようになったほうが世界が広がることを知っているからです。彼らは大人よりも宇宙に近いのです。