福岡空港国内線、搭乗口ロビーに展示されている入賞作品。
そのどれもが素晴らしいが、目を奪われ、動けなくなった作品がこれ。



その視点、
その構図、
そのデザイン力に腰を抜くばかり。

福岡空港に着陸しようとする飛行機を、後ろから捉えているその視点にまずは驚き、
次に福岡のシンボリックな建物を配置しているその構図に驚き、
そして偏ることのないその色使いに驚く。

おそらく何度も飛行機に乗って、福岡空港に着陸するまでの景色を窓から見ていたに違いない。

それにしても、、、
大人ならこうは描かないだろう。
プロならこうは描かないだろう。
いや、大人でもプロでも、こうは描けないだろうと思う。

平面的でもあり、ものすごく立体的でもあり。
3D?何D?
一体何歳の子が描いたのだろう。

天才はいるんだな。




ではまた。
福岡の知人から送られてきた画像には、
知人の子供である5歳児が作ったレゴ作品が。。。

「ヒョウに乗った先生、恐竜の島へ行く」



ヒョウに乗っているのは私らしい。

一年に一度お邪魔するだけの間柄?なのに、ちゃんと覚えてくれていることが嬉しい。

緑色のロープは何?と聞いたら、
ヒョウにあげるエサらしい。
確かに先端に魚が刺さっている。

発想がかわいい。

ヒョウもネコ科だから魚だって好きかもしれないね。
私はつい桃太郎を連想し、お腰につけたきび団子的なことか、と思ったのだが、
果たして今の子供は、桃太郎を知っているのだろうか。




親が私を先生と呼ぶので、その子供も私を先生と呼ぶのだが、何の先生だと思っているのだろうか。
今度会ったら聞いてみよう。





普通に考えれば私は、その子にとってはお爺ちゃんくらいの年齢である。
そのお爺ちゃんをふと思い出し、ヒョウに乗せて恐竜の島へ行くことを想像してレゴを作るなんて、、、

なんてかわいい。

でも私とは同行しないんだね。
私一人を恐竜の島へ旅立たせるのだね。







孫、欲しい。




ではまた。

感謝の気持ちを持たない人たちに、共通しているあることを発見した。

 

 

 

 

「決して謝らない」

 

 

 

 

咎められたり、注意を受けたり、

間違いを正されたり。

それがあきらかにその人の過ち、落ち度であっても、決して謝らない。

 

「あー、うっかりしてた」

「あれ?何でだろう」

「え?本当に?」

 

おそらく、、、

 

納得がいかないとか、不本意だとか、

意地とかプライドとかとは関係なく、

単に「謝る」ということをしない、ただそれだけ。

「謝る」という習慣がないのだろう。

 

すみません。

申し訳ありません。

などと言ったら、死んでしまう呪いでもかけられているのだろうか。

 

 

 

 

「謝」という言葉には

「自分のために、相手に負担をかけていることを申し訳なく思う」

という意味があるという。


自分が犯した過ちが原因で、相手に負担をかけていることを申し訳なく思う場合は、

「あやまる」の意味になり、


自分のために尽くしてくれたり、恩恵を与えてくれたり、相手が負担してくれた好意に対して申し訳なく思う場合は、

「ありがたい」という意味になるという。

 

 

 

 

「ありがたい」も「すみません」も、相手に対して申し訳ないという「謝」という言葉から派生しているのだ。

 

なるほど、感謝の気持ちを持たない人は、謝ることもしないわけだな。

 

マザー・テレサの言葉を借りれば、

習慣は性格になるのだから、

謝らない習慣は謝らない性格になるということか。

 

 

 

 

ではまた。

「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。」
 
マザー・テレサの言葉。
 
 
 
 
本当にその通りだと思う。
 
 
 
 
考え方はそのまま言葉に表れ、
言葉はそのまま態度に表れ、
態度はそのまま習慣になり、
習慣には人間性が現れる。
 
 
 
 
ではまた。
二度目の中国。
初めての上海。

言葉がわからないという理由だけではない、
得体の知れない緊張感がある。
初めて北京に行った時のあの緊張感とまったく同じだ。

慣れることのない「共産圏的緊張感」

拒絶はされていないが歓迎もされていない。
そんなところだろうか。
嫌いじゃないけど好きでもない。
そう言われて複雑な気分になる、あの身の置き場のない感じにも似て。





上海ノスタルジー。

上海の街並みは、
何故かパリを思い出す、
不思議と懐かしい街並みだった。




テレビを見ながらラジオを聞いているような、
何かが混在している、
そんな感じの街、
上海。



でほまた。
先日、突然趣味を聞かれて戸惑った。

私は人に趣味を訊ねたことがほとんどない。

そもそも人に興味がないから人紀雷なわけで、
たとえ会話に詰まったとしても、趣味を訊ねるという発想すらなかった。

そこで考えた。

自分の趣味とは何だろう。








趣味って、ないといけないものかな?

ただ好きなもの、好きなこと、ではだめなのかな?




趣味というより、気がついたらしていることはある。

空に雲と光を探すこと。

それは趣味じゃなくて、癖か。




さて、みなさんは趣味を聞かれてすぐに答えられますか?




ではまた。
ショックだった。
それはもうめちゃくちゃに。

さかのぼること半年前。
色やデザインが気に入って即買いしたリュックと、まったく同じものを持っている人に遭遇した。

ものすごくダサいオッサンだった。

息が止まるかと思うほどの衝撃だった。

唯一の救いは遭遇時、私はその同じリュックではなく、他のリュックを持っていたことだった。

そして一昨日。

新幹線に乗ろうと乗車口まで生き、ふと前の人の足元を見ると、見覚えのある靴だった。
同じ色、同じデザイン。
私が持っているスニーカーとまったく同じものだった。

即座に目線を上げると、そこにいたのも果てしなくダサいオッサンだった。
いや、60は絶対越えている、むしろ70手前のプチじいさんではないか。

今日履いてこなくて良かったぁ、と胸をなでおろすと同時に、完全に腰が砕けた。


別に若作りをしてるわけでも、若く見られたいわけでもない。

ただ、自分の感性がここまで老いているとは知らなかった。

目に留まるもの、手に取るもの、選ぶもの、
そして気に入って買うものが、こんなにもオッサン化していたとは。。。
ダッサいオッサン達と、かぶってかぶって初めて知った。

もう、怖い。
買うのが怖い。
自分で選ぶことが怖い。

普段着ている服だって、同じようなことがいつ起こるかわからない。

いっそ和服の世界に飛び込むか。
いや、それも危険だな。
親分感が出過ぎる。

急にショッピング恐怖症である。




ではまた。



この季節になると、毎年シクラメンを抱えて来て下さる方がいる。

あ、もう冬が始まるんだな、と思う。

ある意味冬の使者。

今年いただいたシクラメンは、花びらが蝶の羽のように薄く、とても繊細だ。
淡いピンク色の花びらを血管のように走る花脈は、蓮の花を思わせる。

このシクラメン、冬の使者の方の地元の高校生たちが、毎年丹精込めて作っているものらしい。

このシクラメンがやってくると、そろそろ唇も腕も足もカッサカサ、、、

冬です。




このアングルから見ると、まるでクリスマスリースのようだ。




ではまた。
身近な人の幸せは伝染する。
 
 
 
 

今日はとても嬉しい日だ。

 
大切に育んできた愛の芽が、ようやく地上に出て祝福の光を浴びている。
 
地上に出たからには、
 
矢のような雨も
暴れる風も
萎れる暑さも
斬りつける寒さも

それはもう容赦ないだろう。
 
それでも、生きていけ!
未来しかない二人。
 
お互いを庇い
お互いを戒め
お互いを許し
お互いを尊び
 
今日祝福してくれたすべての人たちを、
その溢れる愛で照らせ!
そして希望の光となれ!
 
 
 
 
上山竜治~
知花くらら~
結婚おめでとう!
(敬称略)
 
 
 
 
乾いた大地が雨を吸収するように、
身近な人の幸せで、
つかの間私も潤っている。
 
 
 
 
ではまた。