いあと、2時間余りで今年も終わっていきます。
今、私はまだ、仕事場にいます。
つい、1週間前、7年ぶりに古巣に戻りました。
いや、拾っていただきました。
ハッキリ言って、前の職場のパワハラに遭い、追い出されたに近い展開になってしまい、私も目が点。
要は、心理作成で、ムカつく人間をよってたかって、攻撃して追い出す時いう作戦。
その根源の人間が、よりによって、少なくとも、私が、ある意味、信頼できると信じていた?信じていたかもしれない?エリアマネージャーのオッサンだったのが、判明した。
最初はご本人も調子良かった。少なくとも、良い人を
演じていた。
元会社は、この10年、どんどん手を広げ、全国展開。
フランチャイズ方式で、占い師800人を抱える大所帯に発展した。
今までの占い館の常識をこわし、親切丁寧、ホテルのようなサービスを受けられるという、洗練された革新的な理想があったらしい。
確かに、私が入った当初は、そのごくごくわずかな片鱗は感じた。ところが、今はその面影もない。
最初に内装にお金をかけすぎたのか、備品一つに対しても、とことんケチる。椅子やテーブルもボロボロのまま。
とにかく、とにかく、臭いものに蓋をしろ!形式で、追い出されたに近い🥺
もちろん、最終、退職を願い出たのは私だけど、、、
退職させられた?❓⁉️
いまだに、なぜ、そんな目に遭わされたのか、現実的に理解に苦しむ一方かなあ。忍耐強く、まる7年はいたかなあ💦
時々、無性に腹が立って仕方ない。でも、悲しいかな現実は、待ってくれず、とにかく、生きるために今は働くしかないのです( ; ; )
私は、ちょっと、特殊な業界にいて、結局、最後まで、この業界で生きていくことになりそう💦
職業は占い稼業。
阪神大震災直後から、ここ神戸で、ずっと携わっております。
元々、占い師になりたかったわけではなく、どちらかというと、現実とは違う何かが、ある日突然降ってきて、それに対応しているうちに、ドップリと、精神世界にのめり込んでしまいました。
それは、忘れもしない、20才の夏。
あの夏、私は多分、一度、死んだと思う。
琵琶湖で溺れて、もがいて、もがいたけど、ふと、ああ、これで良いんだ。そんな気持ちが強くよぎって、生きのびることを、瞬間的に、あきらめた。死を受け入れる準備をし始めた。
そして、、、気がついたら、助けてくれた人がいた。
幸運な展開ではあったけれど、実際、生きたくても生きることができない人には申し訳ない話だけれど、あの時が、後から考えても、本当に死に時だったと思う。
小さい頃から、何故か、父は、私を虐待していた。
多分、私がその頃、家で、父に一番近い場所にいて、唯一、父に反抗する存在だったから❓
母は、仕事に忙しく、子供をパーフェクトには、フォローすることができず、時間に余裕がある?大学の講師であった、父が休みのたびに、私たち3姉妹の世話をすることになっていた。
家事は、私が、小学生の頃から、炊事に洗濯、保育園に妹を迎えに行ったりと、ほとんどこなしていた。
多分、父は自分のストレスを私を殴ることで解消していたのかもしれない。
母は、満州の引揚者、父は、在日の台湾人。
そんな、両親の長女として、私は生まれた。
小さい頃はかなり、貧しかったように思う。
私が、幼稚園に上がる年に、一家で、千里ニュータウンの風呂なし3DKに引っ越した。
その当時は、風呂付きの物件の方が珍しく、母が嬉しくて、興奮気味にニュータウンに引っ越せた喜びを話していたことを覚えている。
それはどうでもいいけど、私は、未だに、父の暴力を許してはいない。許してはならないとも思う。
確かに、DVとは言うけれど、子供に対する虐待や、性格異常者を除く、夫婦や、親子での虐待は、概して、被害者の方も、口が普通よりも、かなり悪いか、常に、喧嘩の態勢であることが多い。
しかし、私は、まだ、子供だった、そして、それ以上にまだ、小さな、腕力もない女の子だった。
まして、母は仕事人間で、かなり、ネグレクト気味。
だから、母は、亡くなるまで、父がそこまで、私に暴力を振るったという事実を認めようとはしなかった。
顕著な暴力の後遺症は、左脳の記憶がある部分、消えてしまったこと。
私は、4才の頃から、親の趣味で、ヴァイオリンとピアノを習っていた。
2人の妹達も一緒に習っていた。
中学を卒業するまで習っていたから、ある程度、実際、上手かったように思う。
その記憶が全て消えてしまったのだ。
かなり重症で、ヴァイオリンを触っても、全く、弾き方も思い出せない。
同じく、ピアノも。
思春期に暴力を振るわれたショックが、私の記憶を消してしまった😭
後に、トラウマが、ある記憶を失う作用があることを、TVの特集で見つけた。
とにかく、父の暴力は、私の精神を蝕み、その影響は、少なからずとも、今も尾を引いている。