気が付いたら2019年になっとって、
気が付いたら春がちかづいとって、
どうしていつも冬って長く感じるんだろう?
好きなようで、嫌いなようで、
今はただただ「あの日」から時が進むのが嫌で、
自分だけ進むのがいやです。
1月最後の日に、
大好きで大好きで本当に大好きで優しいおばあちゃんが旅立った。
今でも夢なんじゃないかって思ったりする。
早朝、研修にむかうため駅まで自転車をこいどったら
お母さんから電話があった。
「落ち着いてきいて」っていうお母さんの声は泣いてて、
一瞬でわかってしまった。
でもいわれた通り、落ち着いてきいて、電話をきって、
そのまま途中まで電車にのって、途中で我に返った。
慌てて引き返して、泣かないように会社と研修先に電話して、
マンションにかえってドアを閉めた途端泣き崩れた。
ついにこの日がきてしまった。
そう思った。
大好きすぎて、おばあちゃんと話してる最中でも
たまに「おばあちゃんがいなくなったらどうしよう」って思ったり、
1人の時に想像して涙したりしとった。
入退院を繰り返したり、
ちょうど2日前までの帰省でも寝たきりだった。
それでもおばあちゃんは「ななちゃんの為におでん作る」とか、
寝ながらでもみっちゃんに「あの人のあれがどうだこうだ」って、
人のことばっかり頼んでいた。
泣いたり、力が抜けてボーッとしながら
新幹線の時間を調べたり帰る準備をした。
いつもならわくわくの帰省が、全然そうじゃなくて、
新幹線の中でも何度も泣いた。
やくもに乗り換えると、岡山は雪だった。
真っ白の雪景色が、更に寂しさを増して、
だんだんおばあちゃんに会う自信がなくなってきた。
このまま米子に着かなきゃいいと思った。
米子に着くと、すごい雨で、駅前で待っててくれた
お姉ちゃんの車に急いで乗り込んだ。
みんなが今むかってる、とか何気ない会話をして、
帰省するといっつも真っ先に寄っていたおばあちゃん家に着いた。
みっちゃんやお母さんも迎えてくれた。
おばあちゃんの声は当然ながらせんくって、
2日前と同じ中の部屋のベットにおばあちゃんはおった。
でも、お布団の上に立派な布がかぶせてあったり、
おばあちゃんの顔が隠されていたのに違和感しかなかった。
お姉ちゃんが「おばあちゃん、なな帰ってきたよ」って
顔見せてくれて、おばあちゃんはまだ寝てるみたいだった。
2日前、しゃべるのはやっとでも、話はうんうんって聞いてくれたり、
「また会いましょう」って暖かい手でにぎってくれたのに。
いつも心配になるのに、なぜかその時はこれが最後だって思わんかったなあ。
思わんようにしっとったのかなあ。
おばあちゃんの顔はまだあたたかかった。
みんな集まって、通夜をしとるとき、
一番おばあちゃんの横で、集まったみんなやお経を唱えるおしょうさんを
眺めとったけど、まだ眠っとるだけだよ、こんなことせんでいいよって思ってた。
「またあしたもくるけんね」っていって、
次の日はおばあちゃんの写真を現像したりボードをお姉ちゃんと
買いに行って、おばあちゃんちで作業した。
そうしとるうちに、納棺師さんがこられて
おばあちゃんをみんなできれいにしてあげた。
昨日と比べておばあちゃんの顔は冷たくて、なんかそこで初めて
本当に亡くなっちゃったんだってちょっと実感した。
布団をはぐったおばあちゃんの体は本当に小さくて、
私より背が高くて小柄ではなかったおばあちゃんが、いつの間にか私より小さくなってた。
お化粧する前にみんなで順番におばあちゃんの顔を拭いてあげたんだけど、
その光景眺めながら涙があふれ出て、おじちゃんが笑いながら頭ポンってしてくれた。
きれいにお化粧されたおばあちゃんは本当に美人で自慢のおばあちゃんそのものだった。
でも棺に入ることで、だんだんおばあちゃんとのお別れが近づいてるって
また悲しくなった。
次の日はおばあちゃんが長年過ごして、
私も大好きでずっと寄ってたおばあちゃん家を出る日だった。
改築とかはあったけど、昔近所からこの家を引っ張ってきたっていう
話を聞くのが好きだった。
それだけおばあちゃんがずっと過ごしてきた家。
保育園の行きかえりもこの家から、みっちゃんやおばあちゃんにしてもらったり、
朝は細長いおにぎりをにぎってくれたり、いつも私の小さい頃の記憶には
この家と、おばあちゃんの世界一おいしい料理と、優しいおばあちゃんがいた。
想像するだけで悲しくて、辛かったけど、見送りにいくことにした。
家族だけで、って頑なにおじちゃんが言ってたけど、
お見送りに近所の方が3人くらい来られてた。
あんまり話はしなかったけど「井田さんには本当によくしていただいて」って
涙ぐんでおられる近所の方の気持ちがよくわかった。
誰が誰かわからないけど、
おばあちゃんは私や誰かの為に1つの料理をつくると、
ご近所の方にもお弁当にしてあげたりしていて、
ちょっとしたお菓子をおすそ分けしたり、
そのお返しもたくさんあったり、周りによくしてよくされて、
とってもとっても誰にでも思いやりの強いおばあちゃんだったし
そういう話もよく聞いていた。
たくさんの人から愛されてたおばあちゃんだったけど、
死んだときにはこじんまりやってほしいって固い意志もまた
おばあちゃんらしいなって思った。
みんなは「それでもお世話になった人には・・・」っておじちゃんを
悪者みたいにいってたけど、きっとそれがおばあちゃんの最期のお願い
だったんだろうなって思ってた。
おばあちゃんを乗せた「752」ナンバーの黒い車は、
ゆっくり、ゆっくりおばあちゃんが過ごした家を出発して、
ひとつめの角を左に曲がっていった。
みんなで手を合わせながら、やっぱり涙がとまらなかった。
いつも私がここで車にのって、
おばあちゃんが見送ってくれる場所だったのになぁ。
高校の時でも、社会人で帰省の時も、
私が着く時間がわかると、扉を開けてくれていたり、
家の前にでたり、足が悪くてもバス停のとこで向かい側で
手をふって待ってくれてたりしとったなぁ。
そのあとみんなでいった葬祭場には、
とってもきれいな祭壇の中で優しいおばあちゃんの写真が飾られていて、
写真の笑顔をみるとまだ私の心とつつんでくれるパワーがあって、
どこからか「ななちゃん」っておばあちゃんの声が聞こえてくるんじゃないかって
錯覚した。
葬儀のあと、和尚さんが「蓮の花」のお話をされた。
蓮の花は極楽浄土に咲く花で、きっとおばあちゃんはおばあちゃん色の
綺麗な花を咲かせるでしょうって。
でも綺麗な花でも、綺麗な水には咲かなくて、その下には煩悩もあってこその
表面には綺麗な花が咲くのですといっていた。
おばあちゃんがマイナスなことゆってたり苦しむ姿はあまり見たことなかったけど
きっとあのやさしさの中にはたくさんたくさん葛藤や苦しみがあっただろうなって思う。
そのあと和尚さんの隣で、お寿司とかを食べた。
おばあちゃんにもお寿司やお茶をあげた。
まだまだ写真の前にお寿司をお茶をあげるということ、
手をあわして、仏さんになるということが信じられなかった。
あと、そうやってみんなでわいわいしてる間にも、
おばあちゃんの別室の棺が気になったり、おばあちゃんはどこにいるんだろうって
考えたりした。
お父さんやお姉ちゃんは、会社づきあいも多いけん、
初対面の和尚さんとお話するのも上手だなって感心した。
その日はおじちゃんが一人でおばあちゃんと同じ部屋で過ごすって
いっとって、とっても広い部屋だったし、「ななも一緒に泊まろうか?」って
冗談でいったりしたけどきっとおじちゃんも息子として、
最期におばあちゃんと話したいこといっぱいだろうなって遠慮した。
その夜、おばあちゃんに手紙を書いた。
泣きながら4枚書いた。
ずっとずっと続けてたおばあちゃんとの文通。
大学のときも、東京いってからも、
ポストのなかにおばあちゃんからの葉書がくると
真っ先に読んで、すぐに返事をかいた。
たまに真剣な内容だと、封書の時もあった。
どこかかわいい葉書があると「おばあちゃんに送ろう」って
たくさん葉書を買った。
次の日、早めにおばあちゃんのところへいった。
今日でほんとにほんとにこの大好きなおばあちゃんの体に会えるのが
最期だと思って、早めにいった。
おじちゃんは「全然寝れんで、ななに泊まってもらえばよかった」って
わらっとった。
お別れの時間に昨晩かいた手紙はおばあちゃんの手元においてあげた。
おばあちゃんの妹は、「華やかな人だったけん」って、
トゲを全部ぬいてもらった赤いバラをたくさんたくさん入れてあげた。
ふたをしめて、葬祭場から火葬場にいくとき、すごい雨が降っていた。
空も泣いていた。
おじいちゃんが亡くなって、初めて人の死に直面した時もそうだった。
自分の車で、その黒い車に続いて、雨の中、長いクラクションが響き渡って、
また一人で車の中で泣きながらついていった。
火葬場で本当に最期のお別れのときも泣きすぎて、
何も言えんかったけど、お姉ちゃんが横で「最期だよ!」って、
流れを止めてくれて、振り絞って「おばあちゃんありがとう、大好きだよ」って伝えた。
家族に対して思っとっても、大好きってなかなか直接は言えんけど、
おばあちゃんは葉書でいつも「愛するななえさま」ってかいてくれて、
私もいつも大好きだよって書いていた。
何年か前には「ちょっと抱きしめさせて」って笑いながら抱きしめてくれたり、
おととしとかも私が彼氏のことで親と言い合いになって
助手席でめっちゃ泣いとった時も「可愛い可愛いななちゃん」ってゆって
抱きしめてくれた。最後のあたたかい手のぬくもりはいつまでも忘れんよ。
火葬中は、みんなでお弁当を食べた。
おじいちゃんの時はまったく食欲なんかなかったのに、
パクパク食べれるようになって私も成長したのかな、なんて考えながら。
「おばあちゃんの体はなくなっても、魂はきっと今もどこかで見てくれとるよね」って、
みんなに言ったら、おじちゃんが「うんうん、そうだ」って返事してくれた。
あとはおじちゃんやおばちゃんやお母さんの代わりに、
孫たちでお茶をだしたり色々動いた。
おばあちゃんが亡くなってすぐに作った写真ボードも、
葬儀場でどこに移動しても係の人が一緒に持ってきてくれて。
それを見て、みんながおばあちゃんの話をしたり懐かしくお話してくれてる姿
何度も見かけて、本当に作ってよかったなと思った。
お姉ちゃん提案してくれてありがとう。
そして納骨の時には、涙はでんかった。
ほんとうにおばあちゃんかわからんかったけど、
90歳でこんなに綺麗に歯がしっかりしてるなんて!ってみんなが驚いて
たしかにおばあちゃんいっつも歯医者さんにメンテナンスいったり、
歯医者さんに褒められたこと自慢しとったなあと思い返したり。
形見に、ずっとおばあちゃんと側におりたいって少しだけ分けてもらった。
おばあちゃんの骨とともに、告別式がおこなわれた。
きのうとおなじ、優しいおばあちゃんの写真とその周りの華やかな祭壇と、
違うのは、大きな棺が小さな小さな骨がいれられた入れ物になったこと。
その光景をみて、現実を実感して泣いた。
横でみっちゃんも「涙がでていけんわ」って言って泣いてた。
告別式の前には「赤とんぼ」とか「ふるさと」みたいなあたたかいメロディーが流れた。
七日法事まで終わると、和尚さんが昨日わたしがちらっと
和尚さんに「相田みつをさんが好きなんです」ってゆってた話から、
みんなに相田みつをさんの「いのちのバトン」の紹介をしてくださった。
過去無量のいのちのバトンを受けついで
いまここに 自分の番を生きている
それがあなたの いのちです
それがわたしの いのちです
知ってる詩だったけどとても気持ちがすっとなった。
一人がずーっとバトンを持ってても疲れちゃうけん、
次はちゃんと私の番だ、私がばあちゃんから受けついだもの、たくさんある。
そのバトンをもって、しっかり走らなきゃ!って思った。
そしてそして長いおばあちゃんとのお別れの4日間が終わった。
帰りの夜行バスでも、「前はいつもお弁当もたせてくれたのになあ」とか
色んなこと思い出して何回も泣いた。
そしてあの1月31日から一か月が経とうとしとる。
東京には、おばあちゃんとの思い出はなくて、
今でも普段の生活をしとるなかで
「あ、今日おばあちゃんに電話してみようかな」とか
「葉書そろそろ書こうかな」って思ってハっとなる。
あれからすぐに、もう一人家族が旅立ったり、
本当に人間の命の意味や尊さや儚さや色んな感情に
日々ひたっています。
人間が亡くなるってどういうことだろう?とか、
気持ちの落ち着け場所がわからず、本屋さんでそれっぽい
コーナーに居座ってみたり、街中で流れる人眺めながら考えて暮らしてます。
おじいちゃんとおばあちゃんと呼べる人がみんな旅立ったこと、
ひととこうやって別れが増えていくことが
自分が歳をとるってことか、とも思ったりしてます。
毎日こうしておばあちゃんに今でもおはようとおやすみを繰り返したり、
見守ってもらってる気がする私は幸せです。
本当に本当にたくさんの愛情をそそいでもらったなあ。
少しずつだけど、あの日から時が経って、
おばあちゃんを過去に残していくことが苦しいけど、
ほんとに少しずつ私は、おばあちゃんが残してくれた愛情で前に進んどるよ。
今の仕事をしとるきっかけも、
おばあちゃんみたいな、その優しい人柄に影響されてだよって
これから出会う何人もの人に伝えるお話の中に入ってます。
その話をするたび、頭の中にはあなたのその優しい顔と声が浮かんで背中を押してくれます。
おばあちゃん、本当に本当にありがとう。
そして、これからもよろしくね。
おじいちゃんと20年以上ぶりの再会、ゆっくり楽しんでね。
そしていつかまた、私がそっちに行くときは
その優しさで抱きしめてください。
2019年2月26日




