9月7日は父の命日だ・・・
31年前に亡くなった。
命日に寄せて、父のことを書いてみよう。
その年の2月、父は自分の弟の法事のために舞鶴へ行っていた。
親戚の家に泊まっていて、夜中に具合が悪くなり病院へ運ばれたと聞いた。
検査の結果、癌で余命は1か月。
手術も抗がん剤もなにもできない・・・手の施しようのない状態だった。
私はそれを電話で聞いたんだと思う(記憶)
ショックで動揺し、一人で家にいられなくて
仲良くしていた電気屋の後藤君に電話をかけて姉の家に連れて行ってもらった。
すぐにでも舞鶴へ行きたかったが、2月の舞鶴は雪深く車で向かうのは難しかった。
少し落ち着いてから会いに行こうと姉夫婦と相談して、3月に入って雪が少し溶けてから面会に行った。
病室の父は、たった数週間しか経っていないのに別人のように痩せていた。
それもまたショックであった。
病状が少し落ち着いたのを見計らい、名古屋へ連れて帰ってきた。
すぐに家の近くの病院に入院させた。
このときすでに余命と言われていた1か月を過ぎていたと思う。
こちらの病院でも、診たては同じくもう手の施しようはないということでただただ時を過ごすしかなかった。
今でこそ、癌は本人告知が基本だが、当時は本人に告知なんてとんでもないというのが普通。
父にも告知はしなかった。
でも、今思えば・・・本人はきっとわかっていたと思う。
もう治らないことが・・・
夏になると、そろそろ命も尽きそうな気配が何度もやってきた。
癌の痛みで、モルヒネを打ってもらうのだが、意識も朦朧となり何度もうわ言を言っていた。
「整列だ!!」と言っているのを聞いた。
海軍として太平洋戦争に出兵していた父なので、その時のことを思い出しているのかなと母と話した。
やせ細り骸骨のような姿になっていて、モルヒネで興奮状態で眼を見開いたまま意識がない姿はほんとうに見るに堪えない姿だった。
そんな状態になっても、時おり目を覚まし・・・言葉を発するときもあった。
いつもは母が病院に寝泊まりして看病していたが、着替えや入浴のために自宅へ戻っている間に私がベットの傍らに座っていたらら、ふと目を覚ました父が「なんだ千弥子か・・・」そうつぶやいた。
私は「ママじゃなくて悪かったね」そんなふうに言い返したんだと思う。
それが、私に発した最後の言葉になった。
7月、8月
何度も「そろそろ山場です」
医師からのそんな言葉を受けた。
引き潮のとき、人は亡くなりやすいと聞いたことがあり
毎日のように引き潮の時間帯を新聞で調べて、その時間帯に夜中だろうがなんだろうが病院に詰めた。
こんなことを二度ほど繰り返しただろうか・・・父は山場を頑張って乗り越えたが、9月7日の朝6時47分息を引き取った。
余命1か月と言われていたが、半年も頑張ってくれた。
看病も大変だったが、私たち家族は心の準備がある程度てきていた。
それからというもの、怒涛な通夜と葬儀が行われた。
あの頃は、今のように斎場というものはなく自宅で行うのが普通だった。
葬儀屋がやってきて、家の中の荷物を外に出しあっという間に白黒の幕が張られ祭壇が出来上がった。
近所の人たちが集まり、台所では煮炊きもの。
その日のうちに、遠方の親戚もやって来て家の中は人だらけ。
私たち若者は、玄関のたたきで少しの睡眠をとった。
翌日、あっという間に告別式が終わり八事の火葬場で荼毘にふした。
お骨を抱いて家に戻った時、私は急に悲しくなって号泣した。
退職を機にこの家を買い、引っ越してきた。
数年しか住まないうちに死んで骨になって帰ってくるなんて・・・
そう思ったら、父がかわいそうになったのだ。
でも、家の中にいる親戚や近所の人たちは、すでにすべてが終わったモード。
サバサバ後片付けをしていた。
それもまた私の悲しみに拍車をかけた。
父は、運輸省の大きな船のエンジニアだった。
若い頃は、海軍としてマッカーサーの護衛をしたことがあるという話も聞いた。
戦後は、海上保安庁に入り転勤を繰り返したが、私たち子供が生まれ、転勤が多いのは大変だろうということで
転勤のない運輸省の船に乗るために名古屋に赴任した。
平日は、船での生活だったので我が家は母子家庭のようなものだった。
週末になると、船は港に寄港し父が家に帰ってきた。
休み中も、台風や地震などが起こるとすぐに船に戻って行った。
船を沖に出すためだ。
台風で停電した家の中で、ろうそくを燈し母と姉と3人で過ごした夜のことを思い出す。
なので、父との思い出はあまりない。
とにかく怖かった。
父と車で二人になるとドキドキするほど、何を話したらいいのかわからなかった。
なにか気の障ることを言って怒らせたらどうしようという気持ちだったのかもしれない。
それくらい怖い存在だった。
定年退職して毎日家にいる暮らしを始めて、「パパも笑うんだ・・・」と思ったことがあった。
享年64歳
当時は母は60歳
まさに、これから夫婦の老後が始まるというときだった。
私はまだ結婚もしていなかった。
ちょっと早いお別れだった。