1994年8月
まれにみる猛暑の年、各地で水不足で断水に見舞われている頃・・・
娘は生まれた。

私は重度の妊娠中毒症で6月からの入院生活は寝たきりだった。

長い入院生活の間、つらいし苦しいし不安だし・・・
「もう嫌だ」と主治医に愚痴ったことがあった。
すると主治医は「今は親になる練習をしていると思え!親になったらもっともっと自由にならないことがあるんだ。こんなことくらいで嫌だとか言ってんじゃない」と怒られて・・・
その言葉は、「ほんとうにそうだなぁ」と心に沁みて、出産の支えになった。

「母をとるか子をとるか」そんな選択を迫られる状況だった。
一日でも長く妊娠を継続すれば母体に危険が増す。胎児が2500gになるのを待ってすぐに帝王切開。
部分麻酔だったが、途中で血圧が上昇し私は意識がなくなった。
待望の娘の産声は聞いたか聞いてないかわからないくらい朦朧としていた。
でも、嬉しくてホッとして涙がどんどん流れて「ありがとう、ありがとう」と何度も言った記憶がある。

生まれてからも私は薬を服用しなければならなかったので、母乳をあげることは一度も叶わなかった。
母乳は出ていたが、絞っては捨てた。そのうち薬で母乳を止められたが、胸の中が腐った臭いがしてきたときは情けなくて泣いた。母としておっぱいを吸ってもらったことがないことは、引け目にも思ったが元気で生まれてきてくれたことが一番なので自分の感情は置いておこうと思った。

初対面の娘は、それはそれは大きな目をしていて・・・
力強く私のことを睨みつけられているとかんじるほどの眼力だった。
「え、あかちゃんってサルみたいだとおもってたけど・・・うちの子かわいいんだけど」
それがファーストインプレッションだった。

帝王切開になったのは、妊娠中毒症による高血圧のせいだったわけだけど・・・
お腹を開いたら、娘の首には臍の緒が3重に巻いていたらしい。
このまま自然分娩していたら間違いなく大変なことになっていた。
(私の姉はそれで生まれてすぐに死んでしまった)
あぁ・・・娘は、自分が無事にこの世に生まれるために私を病気にさせたんだと思った。
それくらい生命力が強い子なんだと信じていた。