前回は、保育園での記憶について綴りました。

今日は、小学三年生の頃の話をしようと思います。

 

なぜ一年生と二年生の記憶がすっぽりと抜け落ちているのかは、自分でもわかりません。

友達の名前も、クラスも、運動会の記憶さえ霞の向こうです。

保育園の頃のことははっきりと覚えているのに、不思議ですね。

 

小学三年生になると、授業内容も少しずつ難しくなります。

我が家では、テストや通知表は必ず父に見せなければなりませんでした。

たとえ98点でも、なぜその2点を落としたのか、延々と責められる。

そんな家でした。

 

小学校の成績表は、「よくできる」「できる」「もうすこし」という三段階評価。

今思えば、先生の主観にずいぶん委ねられた曖昧な基準でした。

けれど当時の私は、その不確かさに気づくことなく、

父もまた、それを絶対的な評価として、私に突きつけてきたのです。

 

私の記憶が三年生から始まっているのは、

その年の担任が、とても厳格な評価を下す人だったからでしょう。

そしておそらく、私の一学期の通知表には「もうすこし」が並んでいたのだと思います。

 

成績を見せれば、殴られる。

それがわかっているから、終業式の日が、怖くてたまらなかった。

夏休みを心待ちにするクラスメートたちの中で、

私はただひとり、地獄へのカウントダウンを心の中で刻んでいました。

 

終業式の日。

それは、私が人生で初めて「死にたい」と思った日でした。

9歳の私は、死に方など知りません。

けれど「飛び降りれば死ねる」と、どこかで覚えた知識を頼りに、

マンションの5階のベランダから身を乗り出してみたのです。

 

けれど、下を見下ろした瞬間に足がすくみました。

思いのほか高くなかったこと。

そして、迫りくる恐怖に、身体が動かなかった。

私は、生き延びました。

 

今27歳の私は、「あのとき死ななくてよかった」と思えます。

けれど当時は、17歳になるまで、

「あのとき死ねなかった自分」を責め続けました。

それほどまでに、父の存在は私にとって恐怖そのものでした。

 

「怒られるくらいなら、死んだほうがまし」

そんな言葉は、甘えに聞こえるかもしれません。

でもあのときの私は、ただひたすらに怯えていました。

泣くことしかできず、逃げる場所も知らず、

自分が悪いのだと、思い込むしかなかったのです。

 

「父を怒らせる私が悪い」

「母にも申し訳ない。こんなバカな子で、ごめんなさい」

そんなふうに、自分で自分を責め続けていた9歳の私。

 

もし、あのとき――

誰かひとりでも、私の小さな声に耳を傾けてくれていたら。

もし、私の感情の輪郭を、誰かがすくい上げてくれていたなら。

人生は少し、違っていたかもしれません。

……なんて、責任転嫁でしょうか。すみません。

 

そういえば、子どもの頃、私は毎日お腹を痛がっていました。

正露丸は、欠かせない薬でした。

それが私の“日常”であり、“体質”だと思っていたのです。

 

けれど今、ふと気づきました。

大人になってから、一度も正露丸を買ったことがありません。

あれは、体質ではなかった。

ストレスだったのです。

私の小さな身体が、悲鳴を上げていたのです。

 

その声に、私は気づいてあげられなかった。

気づこうとすら、しなかった。

今、心から謝りたい。

9歳の私に、

「あなたは、よくがんばった」と。

 

そして、取り除いてあげたい。

あのときの、ひとりきりの恐怖を。

 

地獄の夏休み――

その、静かな幕が上がる瞬間を、私はいまも忘れません。

 

 

東京都・世田谷。

静かな住宅街に佇むマンションの一室で、私は四人家族の次女として生まれました。けれども、そこから始まる18年間は、この家族に生まれたことを、何度も何度も悔いる時間でした。

振り返れば、それは「私の物語」のはじまりでもありました。

 

第一章は、私がこの世に生を受けてから、保育園を卒園するまでの記憶たちです。

 

二つ年上の姉がいて、私が生まれた頃にはすでに保育園に通っていました。当時の父は、少なくとも“働いていた”と認識しています。けれど、私が生まれるのとほぼ同時に、父は職を辞しました。理由は分かりません。知ることも、問うことも、許されない空気がありました。

 

そうして、0歳と2歳の娘を抱えながら、母がひとりで家計を支える生活が始まります。そこから先は、息を潜めるように続く、長く苦しい日々の幕開けでした。

 

私は、生後まもなく保育園に預けられました。もちろん、赤ん坊の頃の記憶はありません。ただ、確かに言えることがひとつあります。

それは、「母との幼少期の思い出が、一片たりとも思い出せない」ということ。

 

母と出かけた記憶も、家で遊んだ記憶も、公園で手をつないだ記憶も——まるで、私の人生に「母と過ごした時間」という項目が初めからなかったかのように、すっぽりと抜け落ちているのです。

 

母が外で働くということは、そういうことだったのだと、大人になった今なら分かります。けれど、当時の私は、ただただ「何かが欠けている」ことに気づけず、静かにひとりで凍えていました。

 

記憶が少しずつ色づきはじめたのは、年中の頃からです。保育園の送り迎えが、同級生たちとはどこか違っていました。

母は早朝に出勤し、父は昼過ぎまで眠っていて、どちらも私を送ってはくれませんでした。

 

代わりに、園長先生が車で家まで迎えに来てくれた日のことは、今でも鮮やかに覚えています。むしろ、誰かに保育園まで送ってもらった記憶は、それしかないのです。

 

きっと、父も母も何度かは送ってくれたはずです。けれど、記憶に残らないということは、私の中で「特別な体験」ではなかったのでしょう。

 

今になって思います。

あの頃、確かに——声にもならない小さな悲鳴が、私の中で始まっていたのだと。

 

 

 

 

 

私は幼い頃から、自分の気持ちを言葉にすることを、どこか避けて生きてきました。

何かを尋ねられても、真っ先に頭に浮かぶのは「正解」ではなく、「怒られない答え」。

相手が求めているであろう言葉を察し、それを差し出すことが、いつの間にか癖になっていました。

自分の本音は、心の奥にそっと隠して。

 

そんなふうに生きてきた私が、今こうして文章を書いているのは、いつか来るであろう両親の最期に、どうしても伝えきれなかった想いを、せめてどこかに残しておきたいと思ったからです。

 

「子どもの頃の私は、あのとき、こんなふうに感じていたんだよ」

そう伝える機会が、もしも訪れるなら。

あるいは、たとえこの文章にたどり着かれることがなかったとしても──

それでも、私は私の記憶を、この場所に置いていきたい。

 

ほとんど届くことのないメッセージであることは、わかっています。

だからこれは、きっとただの自己満足。でも、それでいいんです。

 

私は確かにここにいて、確かに生きていた。

それを残すために──これから、少しずつ、私の言葉で綴っていきたいと思います。