この記事自体は大分前に作ってのですが気が向いたので

公開します。

 

まず初めに断っておきます。

私は宗教家ではないし、

仏教学部でもない。

また、体系的に学んだことがないため

きわめて無知です。

 

そのため間違っていることを言っている可能性が高い。

間違えに気づいた読者の方には

積極的に指摘を行ってほしいです。

 

なぜこんな中途半端な状態で上げたかというと

比較的完璧主義的傾向があるので、

完璧に勉強してからってなると

いつまでたってもブログが作れないと考えたので

ブログ作成にかかりました。

 

挨拶はここまでです。

どうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ知識が世界をよりよくするのか

仏教の原理から説明できると考えた。

 

まず、仏教の原理について

色々説はあるが

仏教の原理は縁起によるもの

というのが一番しっくりする。

よって縁起によって原理を説明する。

 

縁起という言葉は

今日、我が国では縁

起が良いなどと使われる

用法が一般的だが

元々、サンスクリット語の

プラティーティヤ・サムトパーダ

が玄奘によって翻訳された言葉だ。

 

その本来の意味とは

「縁りて起る」

という意味である。

「これあれば、かりあり」

相対的な因果関係そのものだ。

 

そしてその抽象的な原理を

より具体化したものが、十二支である。

この十二支は

始めの

「無明・行」

「識」を中心とした5支

「愛」を中心とした5支

合わせて十二支である。

私はその無明に着目した。

 

無明とは無知と同義である。

生きとし生けるもの

誰もものを知らないのである。

それによって煩悩が生じ、

人間は苦に蝕まれる。

そうして死んでいくのだ。

 

しかし、そのものについて

知ること、無明を克服することで

無明は明となる。

 

私は明に近づくことで

この世の苦を克服したい

つまり、知識を集積していくことで

苦を滅したい

そう考えている。

 

 

 

 

 

 

でもTwitterでも呟いたんですけど

仏教について勉強することで

自分は病んだんですよね。

 

ここで簡潔にいうと、

色々な教え、説がありすぎて

頭が爆発したっていうのかな。

 

専門家からしたら違うのかもしれないけど

教義もこれしたらダメってのが多くて

学んでいくうえで自己嫌悪に襲われまして。

 

不完全な知識というのは

得になるどころか害にもなりうる

ということを深く実感しました。

 

特に大乗仏教の布施の

考え方は自分のメンタルに

悪く作用しましたね~

 

いや~怖い怖い。

 

 

 

 

ちなみに仏教の原理の文章は

自分が取っていた講義でレジュメで紹介されていた

長尾雅人「仏教の源流」(大阪書籍)を参考いたしました。