2009年8月上旬
酸素10Lのまま、鎮静を開始後、夜を迎えました
相変わらず、色んな方が様子を見に来てくださいます
21時過ぎた頃には、無呼吸も回数が増え、間隔が伸び、家族みんなでベッドを囲み、声を掛け、見守っていました
呼吸が止まった?と思えば、息を吹き返しの繰り返しが何度か続きましたが・・・ついに息を吹き返すことなく、呼吸が止まりました。
23時00分、死亡確認。
私の故郷は山に囲まれ、夏は満天の星空が広がります
その日も星がきれいな夜で、そんな夜空に吸い込まれるように、父は永遠の眠りにつきました。
62歳でした。
本当に偶然ですが、その瞬間は家族だけが病室に居て、父は家族だけの水入らずの時間を選んだのかもしれません。
しかも、父が信頼していた主治医が当直で、最期まで関わっていただきました
亡くなった瞬間「おうちに帰ろう。もう苦しくないよ。頑張ったね」と、その言葉しか出ませんでした
連絡をして、すぐに駆け付けてくれた親戚も「○○(母)のことはこれからもちゃんと守っていくから。心配しないで」と声を掛けてくれました
私と兄が病院に残り、親戚が荷物を運び、母も自宅に父を迎える準備のため、一足先に帰ることになりました
エンゼルケアに看護師さんと入り、父の手術痕や、すっかりやせ細った体を見て、切なくもなりましたが、頑張った勲章でもあります
いよいよ自宅に帰る頃には日付も変わり、病室を出たのは、1時半頃だったでしょうか?
そんな時間にも関わらず、院内で勤務していたスタッフの皆さんが全員で父をお見送りしてくださいました
「皆さんに直接ご挨拶できませんが、父に関わって下さった全ての方に感謝します」と言うのが精一杯でした
涙で満天の星空が滲む、最後の帰宅です
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父には、ある目標がありました。
2011年の九州新幹線のさくらが開通するまで生きていたいという、ささやかな願い。
偶然ですが、最期を迎えた病室の名前は『さくら』
『さくら』への思いがこんなところに通じて、天国へ旅立って行ったのかも、と思えば何となく救われました
しかし最速は『みずほ』なので、せっかちな父は途中停車がある『さくら』より、確実に『みずほ』を選びます
桜といえば。。
術後のせん妄がひどかった時期、移動中に見えた山桜。
術後の転院先までの車移動で見た桜吹雪。
再発&転移が分かり、今年の桜が最後になるかもしれないと言われたこと。
放射線治療中の病室から見た満開の桜。
寒い時期を乗り越え、咲き誇り、潔く散っていく。
そんな桜を毎年見るたびに、父を思い、様々な思いが駆け巡ります
そして、父が居なくなってもう、14回も桜を見たなんて、時の早さが信じられません