わたしはひとりだ。
「孤独」という意味ではない。孤独ではない。
物理的にひとりなのである。
今夜、ひとりなのに大量の豚汁を作ってしまった。失敗である。
おすそ分けするような友人はいない。
友人はいないが孤独ではない。
ところで、
やきいもである。
20年前の秋のことである。
20年前もわたしはひとりであった。
いつもひとりだった。
いじめられていたわけではない。
私の育った村はあまりに小さく、私と同じような子どもがなかったのだ。それだけの話である。
その日わたしは、
家の前の空き地に散らばりに散らばった落ち葉の野郎どもをかき集めにかき集め、
台所からくすねた上等のサツマイモを濡らした新聞紙とアルミホイルで包んで、
落ち葉の山中にぶち込み、じいさんのライターで火を放った。
棒でときどき様子を見ながら、ひとり、立ち上る煙の先を睨んでいた。
一点を睨みすぎて頭が痛くなってきたころ、煙の向こう、空き地の南側に建つ家の窓に、人影が見えた。
遠くてよくわからなかったが、なぜかそのとき、あれは自分と同じ年くらいの少年だな、とわかった。
わかった、というか、気がした。気がした、のではあるが、わかった。
彼は手に温かい牛乳の入ったコップを持ち、百舌の鳴き声を聞きながら、わたしが絶賛燃焼中のイモを羨ましげに見ていた。気がした。なんせ遠いからそんなことはわかるわけはないのだが、そんな気がした。そういうことにすることに決めた。わたしはいつだって誰かの優位に立ちたかった。
イモが焼きあがると、わたしは彼のいる窓に向かって、仁王立ちでイモをほおばった。そして勝ち誇ったように屁をひった。その音は寂れた山々にこだました。イモは焦げて苦かったがわたしは満足だった。彼は少し悲しそうであった。ような気がした。
それが20年前の秋である。
わたしはいつもひとりだった。
ひとりでやることがたくさんありすぎて、秋の日に見た彼のことは即忘れた。
秋には、ひとりでサツマイモを焼いた。ほんとはジャガイモのほうが好きだった。
冬には、ひとりで自作の凧を揚げた。私が走ると凧はずるずると地を這った。
春には、ひとりでタイムカプセルを埋めた。20年後に掘り起こそうと決めた。
夏には、ひとりでタイムカプセルを開けた。20年は待ち切れなかった。
次の秋に我が家に電子レンジがやってきて、私はお手軽にじゃがバターを作ることを覚えた。
もう好きでもないやきいもを食べなくて済む。誰に強要されたわけではなかったけれども。
私はその秋じゅう、家で飼っていた亀のカメ次郎にとろけるバターを見せつけながらジャガイモを堪能した。
昨日、バイト帰りに火葬場の前を通ったら、煙突から白い煙が立ち上っていた。白い煙は馬鹿みたいにまっすぐ青い空に吸い込まれていった。わたしはいつもの癖で煙の先を睨んだ。少し寄り目になっていたと思う。ブサイクだったと思う。満足の行くまで煙を睨んだあと、20年前の彼のことを思いだした。
あの日、彼に優しくしていたら、彼に優しくやきいもを分け与えていたなら、わたしはその後もドミノ倒しのように気軽に容易に慣性の法則でもって、ひと様に優しくできたのかもしれない。わたしが誰よりも優しくしなければならない相手にわたしは一生優しくできないまま、残りの生を生きる。悔いなく生きる。悔いていられるほど記憶力はよくない。
振り返ってもう一度火葬場のほうを見ると、煙は高いところで右側に流れていた。上空ではきっと強い風が吹いているのだろう。