奢る奢らない論争ってすごく吸引力がありますよね。
誰もにとって身近で、そして自分も何か意見を言いたくなる。
IT業界ではこういうのを自転車置き場の屋根と言ったりします。
専門的でお金のかかる規模の大きななことより、身近で些細なことのほうが多くの人が意見を言いたくなって議論が膨れ上がりみんなの労力をつぎ込んでしまうというものですね。
奢るか奢らないかなんて当事者同士が話して決めたらいいし、それで感覚が合わないなら2度目は会わなければいい。
他に付き合いを続けたい理由があって支払いの感覚の不一致で別れるのは惜しいと思うなら、支払いのスタンスを変えてほしいと伝えたらいい。
それだけのことで、外野がとやかく言うものでもおしつけるものでもないです。
それなのにこんなに盛り上がる話題になるのは、みんなそれぞれに自分のスタイルに美学を持っているからでしょう。
男女は対等であるべきだから割り勘だと思っている人もいます。
お金のあるおじさまを楽しませて気持ちよくお金を出させてあげるのが自分のプロ意識なのだと誇りを持つ人もいます。
自分と反対の意見を見たとき、自分の大切にしているものが少し削られるような気がするから、自分が大切にしているものは間違っていないと確認するために主張をしたくなる。
デートのあり方なんて奢る奢らないの他にも、デートに履きなれないハイヒールで来るのはどうなのかとか、シワの寄った服で来るのはどうなのかとか、待ち合わせに早く来過ぎるのはどうとか、5分の遅刻は連絡すべきなのかどうかとか、無数に話せる話題はあるわけです。
その中でも奢る奢らない論争は特別な立ち位置にいる気がします。
やはり、この資本主義社会において、お金は特別なものであり、お金を払うこと、お金をいただくことは、人の尊厳に直結するんだなあと改めて思わざるを得ません。
お金を払うことを尊厳だと思う人は、自分は経済的に自立した消費者であり支払い能力があることを誇りとしています。
自分だけが自立していればいい人は奢りますし、相手にも自立していることを望む人は割り勘にしたがります。
お金をいただくことを尊厳と思う人は、デートでサービスを提供しており、おごってもらうことを、自分のサービスが高品質だったという評価として受け止めています。
デートに来る時に、消費者として来るのか、労働として来るのか、その意識の違いが根底にあるのだと思います。
私自身は割り勘か自分が奢るかのどちらかがよく、奢ってもらうことにより、デートが労働になることは不快だなと思います。
デートをサービス提供であり労働で金銭で対価を受け取ることを敬意捉える見方は、ありのままを見せて支え合う結婚とは相性が悪そうです。その感覚のままでは長続きする結婚には繋がらなさそうだな、と思いますが、付き合ってからプロポーズに至るまでの間、あるいはその先のタイミングで、自然とモードを切り替えられる人も多く、心配するのもお門違いなんだろうな、とも思います。
男を財布としてしか見ていないからこそ、他のギャラ飲み女子たちと差別化し富裕層男性の心を射止めるために、あえてお金をいただかないという戦略を取る港区じょしだっています。
表面上の、奢られることを要求するか割り勘を受け入れたり求めたりする行動はその人の人間性の本質を説明するものではないかもしれません。
自分を理解するという意味では、どんな意見やデートの際の相手のどんな態度を自分は不快だと感じたのかは、自分がデートや相手との関係をどう捉えているかを理解するのにいいシグナルになりそうです。