大人になるということ。

大人になるということ。

メロンが好きです。

Amebaでブログを始めよう!
日曜日が来た。

日曜日らしいことがしたかった。
なぜなら、とても残念なことに日曜日は一週間に一度しか来ないから。
もっというと、日曜日を迎えるためには、月曜日と火曜日、水曜日に木曜日、そして金曜日、さらには土曜日までも過ごさないといけないから。
ベッドの上でいびつな姿勢を取りながらそう思った。

日曜日といって思い浮かぶのは、なんでも鑑定団の再放送、笑点、サザエさんだった。
どれもテレビ番組だ。
それは日曜日にすることではなくて、日曜日に起こることだ。
全く自分のあずかり知らないところで行われていることに過ぎなかった。

Facebookを見た。
そこにはたくさんの日曜日が溢れていた。
キャンプをする人、カフェでランチをする人、スポーツに興じる人。どの日曜日も素晴らしく輝いていた。
誰一人としてベッドの上でいびつな姿勢を取っている人などいなかった。

自分も日曜日がしたい。
そこで思いついたのが日曜大工だった。

そうだ自分は日曜大工がしたかったんだ。
晴れた日差しの下、のこぎりで木を切って、ペンキを塗り、クギを打つ。
額の汗を拭うと、手についたペンキが顔についてしまい、「てへへ」と照れ笑いしながら、ブレンディのアイスコーヒーを原田知世と飲みたい様な気分になって、でも実際は原田知世はいないから、写真を撮ってFacebookにアップロードする。
そうやって注意深く切り取られた日曜日の数々が毎週貼り付けられていって、素晴らしく輝かしい人生が液晶画面の上に形作られていく。
これだよ、これ。
考えれば考えるほど日曜大工がしたくなった。それはまるで、本当に日曜日にだけすることが許された特権のようであったし、そのためには、月曜日と火曜日、水(以下省略)しなくてはいけない。

ブレンディではないコーヒーを飲みながら、何を作るか考えた。
日曜日に木を切ったり、ペンキを塗ったりすれば、一応「日曜大工をする」という当初の目的は達せられるのだけれど、ただ漠然と木を切ったりクギを打ったりしているだけではやはりだめで、大工仕事である以上、何か具体的な物を作らなくてはならない。

そう考えてごみ箱を作ることにした。といっても部屋に置く小さいゴミ箱ではなく、ゴミ収集に出すときの大きなゴミ袋を入れる大きな箱だ。
というのも、ベランダにそれらのゴミ袋を置いていたところ、風が吹いて中身が飛び散ったり、風が吹いてゴミ袋そのものがなくなっていたり、風が吹いて桶屋が儲かったりなど、とにかく風が吹いたら何かが起こる有様で、風から袋を守るための箱が以前から欲しいと思っていたのだ。
早速スケッチプックに図面を描き、ホームセンターに木材を買いに行った。

自分がこれから買おうとしているものは木材だろうか、材木だろうか。などということを考えながらホームセンターに向かった。
ホームセンターでは、爽やかな晴天の日曜日を満喫していそうな人と、爽やかな晴天の日曜日を満喫していなさそうな人がいた。

材木売場ではない木材売場に行くと、そこには大小様々の木材があった。
先ほど描いた図面にサイズの合致しそうな木を適当にチョイスしていたところで気づいたのが、これは大き過ぎて車に載らない、ということだった。
車で持って帰れないということは日曜大工ができないということであり、素晴らしい日曜日を満喫できない自分は、またベッドの上でいびつな姿勢を取るより他なくなってしまう。

あぁいやだ。いびつな姿勢取りたくねえ。今この瞬間、これほどまでにいびつな姿勢取りたくなさを感じている人間は自分だけだろうな。
そう思って木材売場で絶望していると、「カットサービスをご希望の方は店員にお申し付けください。(ワンカット30円)」との文字を発見した。
どういうことかというと、木材売場で随意の木をチョイスしたのちこれを持っていくと、店員が30円で好みのヘアスタイルに髪を切ってくれる、ということではもちろんなくて、何か業務用の特殊なる工具などを用いて木を切ってくれるということである。

早速店員を呼び、「すいません、あのぉ、この木、切ってくれませんか?」と言った。
その際、「木材と材木の違いは何ですか?」と聞くと、店員は「木材は切って種々の用にあてる材料の木をいい、材木は建築・器具製作の材料として製材した木をいいます。岩波書店の広辞苑第六版、2782ページと1098ページにそれぞれ記載されています。」というやりとりがあったかというとなかった。
唐突にそんな質問をすると狂人だと思われてしまう。

「こちらに来てください。」
木材を切るための部屋に連れて行かれ、縦横の寸法を聞かれた。
店員はてきぱきと鉛筆で木材に寸法を書き込むと、拷問器具のような大掛かりな装置に木材をセットし、それを作動させた。
喧しい音と共に巨大なノコギリが上から下りてきて、たちまちにして木材は注文通りの大きさに切られていった。

猛烈に感動した。
木材と材木の違いなど、もはやどうでもよくなっていた。
日曜大工はまだ始まっていないのに、もう箱を完成させた気になって、頭の中ではエンドロールが流れ始め、エンドロールの後にまだ話があるかもしれないと考え、席を立つべきかどうか迷ってしまった。

実際には、まだ何も始まっていなかった。
切断された木が、シュールに目の前に積み重ねられているだけだった。
この日曜大工を決着させなければと思った。(つづく)

$大人になるということ。
からあげが食べたくなった。

食欲を誘う香ばしい匂い。揚げたてだから外はカリカリ、中はふっくらジューシー。ほら、見てください。黄金色のいーい色に揚がってますよー。ということがテレビで放送されているのを見たからだった。
グルメ番組などを見るとしばしばそういうことはあるので、最初は気にしなかった。
いや、気にしないようにしていたのかもしれない。
本当はからあげが食べたくて仕方がないのに、自分の気持ちに素直になれず、カツカレーや、もずく酢、チキンラーメンなどを食べていた。

だってそうだ。あえて不味そうな食べ物ばかり特集するグルメ番組なんてないし、おいしそうだと思ったものを全部食べるようなことになったら、身体がいくつあっても足りない。
もっというと、テレビに映っている時計がいいなと思ったらその時計を買い、アーチェリーいいなと思ったらアーチェリーをやり、なんてことを始めてしまったら、気づいた頃にはロンドンの競技場でブータンの民族衣装に身を包み、高枝切りばさみ片手に国会の消費増税法案について討議する、というようなことになってしまいかねない。
なんて、ありえない事例を拵えて、おれはもう二度とメディアには流されない。と、頑なになっていただけかもしれない。

すると不思議なことが起きた。
頭の中では無数のからあげが時速120キロで飛び交い、スタバではからあげしか提供しなくなった。
出会い系サイトの街宣車がからあげ街宣車となって、自宅の周囲を一日中ぐるぐると回り続けていた。
丸ノ内線に乗っていたら、目の前のおっさんが一瞬にして1万個のからあげに分裂して砕け散った。
からあげが食べたい。もずく酢がからあげの味だったらいいのに。
自分がこれほどまでにからあげを渇望しているのだということに驚嘆した。

揚げたてをすぐに食べたかった。
手っ取り早く揚げたてを食べるためには、自分で揚げるしかない。
でも甦るのは4年前の苦い思い出で、そのときも何故か無性にからあげが食べたくなった自分は、鼻息も荒くからあげを揚げたのであった。
若かりし日の自分は、慣れない揚げ物に四苦八苦し、恐る恐る油に鶏肉を入れては揚げ、血と汗の結晶を完成させたのであった。
絶望的に不味かった。
絶望にも色々な種類があることはまだ若い自分でも理解していたが、まさか絶望の味があるとは知らなかった。
作り方をよく確認もせず、勢いだけで作ったからか、出来上がったからあげは、からあげとはほど遠く、からあげと定義するのはもはや不可能な、からあげの味がしないからあげだった。

あれから4年。
同じ過ちを繰り返さないのが僕ちゃんの良いところ、ひっ、ひひっ、ひひひひひひぃっ。半狂乱気味になりながらクックパッド見て研究に研究を重ねた。
スーパーマーケットで鶏肉とにんにく、生姜、片栗粉をかごに入れて、レジに向かった。
レジにいたのは、派手さこそないものの、そのレジ業務においては抜群の安定感を誇るアルバイトの大石くんだった。
中盤の底にこういう選手がいたらチームは安定するんだよな。自分がサッカーの監督だったらそう思うよぜったい、と日頃から絶大な信頼を置いている店員である。

以前、この店の会計でヨーグルトの引換券を出した際、渡した店員はまだ経験が浅かったのか、引換券を受けとった彼はパニックに陥り、会計が完全にストップしてしまったところ、隣のレジにいてロイド眼鏡を掛けた山田なる店員が登場したものの、彼も対処方法が分からず、事態は複雑化。
しかも彼が持ち場のレジを放棄して閉鎖したことにより、深夜のレジには行列が発生、混乱の上にも混乱を極めた、ということがあった。
あのときのレジが大石くんだったらそんなことは起きなかったはずだ。
いいよ。いい流れだよ。これでからあげ食べられるよ、おれ。

そのときにはもう既にからあげはそのからあげ性を完全に失っていて、これはもう自分の使命であるというか、からあげを食べないとおれは死ぬ、くらいの強迫観念ができていたのだと思う。
帰って計画通りに鶏肉を揚げ、ビール片手に揚げたてを食べた。
4年前と違い、うまかった。
食欲を誘う香ばしい匂い。揚げたてだから外はカリカリ、中はふっくらジューシー。ほら、見てください。黄金色のいーい色に揚がってますよー。だった。
いわゆる「普通にうまい」というやつだと思う。
でも、なにかが違った。

見た目も味も、確実にからあげなのだけれど、これまで自分が待ち望んでいたものとは違った。

それはただのからあげ、だった。

ただのからあげであり、からあげ以上の何物でもなかった。
そう思った途端、からあげがどうでもよくなった。
自棄になってテレビをつけたら麻婆豆腐が特集されていた。

麻婆豆腐が食べたくなった。(以下同文)
「それでさ、洗剤のCMとかでよく洗浄成分が汚れを分解するCGが出るじゃん。つるつるした球体が、茶色くてねばねばした、いかにも汚れ!って感じの汚れをやっつけていくやつ。汚れを根こそぎ分解します、なんて言って。でもさ、よく見ると汚れがほんの少しだけ残ってるんだよね。あれはさ、この洗剤は汚れをよく落とすけれど、100%完璧に落とすってわけじゃないですよ。そこんとこはちゃんと理解しといてくださいね、よろしくおねがいしますよ。っていうことだと思うんだけど、あれはやめて欲しいよね。なんなの、あれ。もっと自信持ってよ!君が自信を持たなかったら、僕たちは一体どうすればいいのさ!最初からそんな弱気でいたら、落ちる汚れも落ちないよ!って言いたくなるよね。」
僕が熱く語っているのに、相手はそれについて何もコメントしない。
それどころか、反応すら示さない。
週末、何をするともなく一人でぼんやり過ごしていると、サボテンにまで話しかけてしまうことがある。

ここで、前回の記事を読んでいて勘の鋭い人なら、
「おいおい、先月の記事で羽毛布団を買わなきゃって散々書いてたじゃないか。やることあるじゃねぇか。あれはどうしちまったんだよ、ジョニー。」
と言うかもしれない。
しかし、僕はジョニーではないので、勝手な名前で呼ぶのはやめていただきたい。

オーケイ、オーケイ。羽毛布団の件はちゃんと書くから、そう焦らないでくれよ。
結局、布団は買った。なんとか織りとかいう加工が施されていて、これからの季節でも快適な肌触りのさらさらしたものを。
ホームセンターで買って、部屋に帰って早速袋から取り出し、その布団の特徴・機能が書かれた説明をふむふむ言いながら一通り読んだ。

古い羽毛布団は燃えるゴミで処理した。
羽毛が飛び散って使い物にならなくなってしまったとはいえ、地元を離れ、今の部屋に引っ越して以来2年間お世話になった布団である。
慣れない社会人生活を送るなかで、辛かった夜も、楽しかった夜も、実習の夜勤明けの朝も、常に一緒に過ごしてきた布団だ。
その布団を大きなゴミ袋に入れるときには、さすがに一抹の寂しさを覚え、
「2年間ありがとう。おつかれさま」
という名残惜しい思いで捨てたかというと、そんなことは全然なく、ただただ早く処分したい一心だった。
ただただ憎かった。
こんなものが自分の部屋にあると考えただけで不愉快極まりなかった。

それからというもの、僕は部屋に飛び散る羽毛に悩まされることもなく、毎日快適な生活を送っている。
布団を変えただけで、毎日がこれほどまでにハッピーになるとは、目から鱗だった。
これからはどんどん布団を変えていきたいと思う。
できれば一週間に一回は布団を変えていきたい。
そして、もっともっとハッピーな生活を送り、世界一幸せな男になってやろうと思う。