「 約束」~過ぎ去りし想い~

        「 約束」~過ぎ去りし想い~

愚連隊から小説家に転身しました。僕の13年間の獄中生活で学んだこと、雑駁ではあるが約三千冊の本を熟読した事。明日がある事を僕は伝えたい。僕の文学で他人に涙と感動と心を温めて行くメッセージであります。主人公・沢村旬は何を約束したのか.......では読んで下さい。

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吉田法泰さんの投稿した

僕は刑務所は13年間出たり入ったりを繰り返している。名古屋刑務所を出てから今日は9年目の出だしの日であります。そう、6月25日がその日になります。中で僕は雑駁ながら三千冊の書物に出会いました。これが僕の運命を変えました。書物から「知る」という人間の目覚めというもを見つけました。この「知る」と言うメカニズムが人間には内蔵されているんです。リセットも出来るのです。リカバリーCD ROMを使えば多い昔にも行けるのです。リカバリーとは本当は初期化にパソコンを戻せるという意味ですが。

時田光代はその日新宿のジャズ喫茶「どん底」でジャズの音色と学生が溜まる賑やかさの中で一人本を読んでいた。「太陽の季節」を楽しそうに読んでいた。東京大学・経済学部を専攻している彼女は学生運動とは全く別の世界に生きている只の美人お嬢様であった。
コーヒーを飲んでいると友達の有紀が光代の前に座った。
「待った?」
「ううん。私も今来たところなの!」
「景子は?」
「まだなの・・・・」
「それ面白い?」
「この本?」
「太陽の季節!石原新太郎が書いた本今街中の本屋で注文しないと読めないんだよ。有紀。」
「通りと言う通りは「ZE・N・GA・KU・REN」の学生で一杯だよ。
「ここで飲むコーヒーは何とも言えない味がするね~。う~ん美味しい!」
「ところで学校卒業したら一体何をする?光代はお嬢様だから、そんなこと気にならないでしょ」
「そんな事ないよ」光代はフテッタ顔を有紀に見せた。

時田光代は製紙工場で財をなした「時田財閥」の一人っ子のお嬢様で両親に面倒を掛ける事無く育てられた。光代は全学連(学生)にオルグされる事なく過ごしていた。大学のキャンパスにはヘルメットを被り覆面をした学生運動家たちがプラカードを持って自民党の体制批判の書いてあるビラを一生懸命通り過ぎる学生たちに配っていた。1年生の仕事であろう。若いって事は。安田キャンパスはへルメットの海と化して、疎らなオーラを描いていた。独特な風が吹いていた。全学連は3っつに別れた。所謂「三派全学連」である。
「中核派」「革マル派」「民青」この三派は今も分裂したまま存在する。学生と労働者との団結の力でまた「全学連」生き延びているのだろう。

国会は連日連夜「安保闘争」の声が止まなかった米国の高官さえヘリコプターとんぼ返りするありさまを呈した。時の首相・岸信介もえらい時代だと頭を抱えていたそうだ記録に残した。

「安保条約というのはアメリカの下につくアメリカ帝国の軍事戦略の一つである。燃料機輸送貨物が新宿の鉄橋を通る度に列車に向かって学生たちが野次を飛ばしたのも虚しい話である。
未だに「反米・反米」と騒いでいるが一体いつになったらアメリカから独立できるのである。いや、一人歩きが出来るのであろうか?

「ヤンキゴーホーム」の声は日本人にはないのか?
韓国や中国では大きな声を出してるぞ!聞こえんのか!





昭和16年8月15日

大日本帝国が同じ帝国主義アメリカに第二次世界大戦で敗戦した。

天皇は現人神(あらひとがみ)から人間になった。

天皇は軍服を脱ぎ燕尾服で国民の前に登場した。

国民の初めて見た天皇であった。


軍服を着た隣の大男は初めて国民が見た鬼畜と呼んだアメリカ軍人であった。

名を「ダグラス・マッカーサー」という。


終戦の日から大日本帝国は、このダグラス・マッカーサー、この一人の男の為に翻弄されていく運命を描いていく。


日本がアメリカの金魚の糞となった日の午後のことである。


国民は敗戦国民として先勝国民(中国・台湾・朝鮮人)のあるがままの振る舞いに強盗・強姦・略奪の思いのままの日々におびえて暮らす毎日であった。

何一つ戦争と言うに人間の愚かさの為に捨ててしまった日本人国民は天皇はじめ歴史・文化・にまで隅で塗られてアメリカ的でないものはすべて「嘘」と呼ばれた。


民主主義がまかり通る世界を構築してしまった日本人の誤りであった。

ヒトラーはドイツ国を第三帝国といい誇ったがハイル・ヒトラーが聞こえる日は無くなった。

イタリアをファシスト党の色に染め抜いたファショことベニート・ムッソリーニは三国同盟で逸早く滅びていく運命に出会った。


何もかもが移り行く季節の如く世界を変えていった。


一体、第二次世界大戦は世界に何を残して行ったのだろう。


次は一体だれが死んでいくのだろう・・・・・


世界は変わった。


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1963年 ザ・ビートルズが世界に「シー・ラブズ・ユー」を飛ばした日の午前の事である。


日本国の国会議事堂の前にヘルメットをかぶり学生運動の先駆者「全学連」がデモ隊をきずき

「安保反対!」の怒号をとばしていた。


空はあまりにもいい天気であった。


国会議事堂では昨年、学生運動の殉国者となった樺美智子が著作「人知れず微笑まん」を残し国会前で警官隊に殺された。

東大文学部の全学連はその日、東大安田講堂に結集した。その中に沢村一郎は東大全学連の一兵として革命家を目指し日々学生運動に参加していた。

ソビエト革命の本を宝の手箱の様に箱を開けないまま信じ込んでいた一郎は、自分が革命を起こしてやるといつも同志に力説していた日々を送っていた。

その考えが後年、連合赤軍の14名の同志殺害という敗北をうんだ。


日和見主義が一番嫌いだった一郎は革命という国家転覆の裏の人間の正体にきずかなかった。


盲目は若さの象徴であった。


若い力が社会には必要だった。ましてや国家を変革するという大事業は若い血を流さずには成り立たない。畑の天地を掘り返すという作業は若さには少し力のいる作業であった。


学生は純粋であった。傷つきやすく、大人の嘘に真剣だった。


歴史とは常に勝者のものであった。

表に見える物ばかりを若さは信じた。


マルクス経済学は本当はお金の分配の法則を書いたものである。

「資本論」は貧乏人のお金の分配を文章に書き上げたものである。

レーニンはただ演説がうまく人をその気にさせるのに長けていただけである。

口がうまいというやつだ。


革命とは起こそうと思って出来るものではない。

自然と人間の心の奮発が湧き上がって出来上がるというものだ。

日本の歴史でも「えいじゃないか」という民衆の力が湧き上がった歴史がある。幕末の事である。

明治革命でも勤皇と佐幕との抗争事件だけで歴史が変わったわけではない。アメリカが、オランダが、

フランスが、日本に開国の圧力をかけてきた時代背景をれてはならない。薩摩がフランス、長崎がオランダ、徳川幕府の援助交際をして、日本が右往左往していた300年の徳川の歴史を脅かしていた。

薩摩と長州がガッチリ手を組み時代が転化していく。薩長連合が江戸へと攻めていく。大砲が出て来た、鉄砲が徳川のこめかみに銃口をあてた。徳川に最後まで忠誠を誓ったのは田舎育ちの最後の侍、近藤勇率いる「新撰組」の浪士だけだった。英雄・土方歳三は遥か蝦夷地の五稜郭で一人立てこもる榎本武揚のもとまで逃げてきて最後は函館で明治政府軍に銃殺された。短い生涯を全うした。こう言うのを漢と言うのだろう。親分は生涯一人である。話は変わるが山口組と抗争をした一和会の石川裕男という漢がいた。最後まで山本広組長の為に帰れるか分からない懲役に体を賭けた。仮出獄を蹴ってまで一和会

に忠誠を誓って自分の起した事件(四代目山口組組長暗殺の指揮官)は間違っていないと刑務所の面接委員に豪語して仮出獄を蹴った。大阪府警の四課も認める漢、土壇場の態度も立派なものだと感心したそうだ。刑務所の中でも漢で通しているそうだ。立派なものである。


学生運動を支援する救援連絡センターというのがある。

学生運動で逮捕された学生の連絡救援をする組織である。


「東京都港区新橋2-8-16石田ビル5階・救援連絡センター」


# 筆者もここで獄中者組合の仕事をしていたことがある。

# 僕は死刑廃止運動と刑務所処遇改善運動をしていた。

# 関係のない話である。(笑)


沢村一郎は東京の神田で産まれた。チャキチャキの江戸っ子であった。今でこそ学生の為のに建ち並んだ古本屋のビルディングのには学生ばかりか社会人やサラリーマンや芸能人の多種多彩の人間がが珍しい本を見つけに集まり人混みに頭がくらくらしてしまいそうなくらい人だかりをつくる街に変わっていた。
一昔は神田と言うところはお祭りの「神田明神祭り」が有名で一年に一回このお祭りをみようと日本中からお祭りファンが集まるだけであった。その頃はまだあっつちこっちで畑や田圃があり夏になると田圃の水田に集まる「シヲカラ・トンボ」を追い駆けていたものであった。
また田圃に水が張ると子供たちはザりガ二釣りをしていたのを思い出していた。


今ではない風景である。


沢村一郎が東京大学文学部に入学したのは昭和の60年の春のことであった。

丁度、学生運動に火が付き始めたて全国の学生が社会や国家に目を向け出して、自分のいる大学の事だ。自分のことは自分でやろうという気運が盛り上がり大学と言う権威に潰されてはいけないんだと思い込んだのだ。大学の運営に学生自身が入ろうとしたことに若い学生は大学側の運営が商業的だと反発の声を上げたのである。それが単一から組織化していき「全日本学生自治会総連合」そう「全学連」が社会の中に産声を上げたのである。


その中で一郎は人生を変えて行く運命に出会う。


妻・光代との出会いもその一つである。






静岡県は浜松市から物語は始まる。浜松市は静岡県の中で静岡市と背丈を共にする政令都市で人口を80万人を超える一大都市である。生産業としてはバイクの「YAMAHA」とピアノの「KAWAI楽器」が本拠を置き食品産業ではうなぎ養殖が有名であり浜松には無くてはならない産物である。うなぎから作ったと言う春華堂の「うなぎパイ」は全国の駅のキヨスクには欠かせない旅の土産商品である。最近では栃木県宇都宮市から奪い上げた餃子が「浜松餃子」として浜松市をあげて食物界こぞって取り上げている。宇都宮市民にとっては、甚だ腹立たしい事であろう。


この物語の主人公「沢村 旬」もこの浜松市で生まれて育った一人だった。


時は昭和68年5月

その日は浜松市民が一年で一番大事にしている「浜松まつり」の始まる5月3日のことだった。


浜松市南区本郷町の住宅地の沢村家にとって、この日は沢村一郎と妻・光代の長男誕生で朝からのお祝いの客で沢村家はごった返していた。遠州病院の産婦人科のベットで寝ている妻・光代も出産の大仕事の後で疲れ切った身体でお祝い客のお見舞とお礼を丁寧に交わすのが精一杯であった。

一児を抱えた大事業の達成者、父一郎は沢村家の大事より病院に横たわる妻・光代の所へいち早く駆けつけたかった。二人で元気に泣き叫ぶ一児の顔を拝みたかった。


父となった一郎は産声を上げた子供の名前を既に考えて妻・光代には伝えてあった。

父・一郎は男であったら「旬」女であったら「静」とすでに命名してある事を妻の光代だけには伝えてあったのだ。


一児の子は「旬」と名付けた。


5500gの身体で産まれた「旬」は病院中に響き渡るぐらいの泣き声で妻・光代の横に置かれたベビーベットで一生懸命泣いていた。


1968年5月3日午前7時00分 沢村 旬の誕生であった。



小説に挑戦。僕が47年間生きて来た中で「生きる事」について文壇に挑戦してみたくなった。僕の文章能力がどこまでいけるか、社会の中で、どう捉えれるか、そしてどこまでファンを熱くさせられるか。

自作のブログ「うつ病の私とゴンとロン」を5年間書き続けた。その結果,出会えたものが小説だった。

僕は人に,えばれる功績がない。中学校も2年まで学校の先生をぶっとばし3年からは群馬県にある赤城少年院の中で過ごした。僕は父・母に甘えたい年頃を鉄格子に囲まれた中で過ごした。これをかわきりに僕の非行は自分でも止める事が出来なかった。20代を少年院で38歳まで刑務所の中を行ったり来たりで人生であった。 「獄中十三年間」僕に教えてくれたものは社会の冷たさであった。僕は刑務所の中で勉強をした。余暇時間のすべてを読書に明け暮れた。3千冊の本を雑駁ではあるが読みつくした。小説・歴史・文学・哲学・思想・天文学・人生論・社会学・漫画・エロ本・などなど......あらゆる分野を熟読した。

刑務所の夜、眠れない夜は小説の主人公になり、果てしない妄想を描き朝を迎えたこともある。

刑務所の中では「人」新聞に投稿しては文字で明日の来る日を待った。いつも落選であった。「夜明けのこない日はない」と思い、出獄の来る日を13年間過ごした。

文章に出会えたのが僕の人生を変えていった。うつ病に苦しんでいた頃、僕にブログ進めてくれたのが切っ掛けであった。先輩である宮崎敦史さんがブログの書き方を1から10まで教えてくれた事には、今でも感謝している。宮崎さんが居なければ、今の僕は無いと思っている。人生を変えたターニングポインントであった。良き先輩を持っていたのが僕の宝です。

「うつ病の私とゴンとロン」5年間書き続けて、今ではアクセス数は1日1300人近いファンに囲まれている。

僕の文章能力が発揮出来ている実証であると僕は思っている。


僕が作家になる夢の始まりである。


「物書きになる」今日への一歩である。

時代にブレナイ作家でなければならないんだ!僕は僕の世界を作り上げるんだ!

僕にはその能力があると信じている。


「約束~過ぎ去りし想いで」


僕はこの小説を非行少年だった少年少女に受け継いでもらうために書くんだ!

刑務所を行ったり来たりの犯罪者の夢と繋ぐんだ!

そして苦労ばかり背負わせた父・母の笑顔を探す為に書くんだ!


その気持ちが無くなったら僕には作家の才能がないとあきらめるんだ。


僕の文章能力のすべてを賭けて皆様に愛される文章を組み立てていきます。

熱いファンを僕の世界へと導いていく作業の始まりです。

どうぞお楽しみにして下さい。


7人の兄弟分の応援があったから出会えた仕事です。感謝しております。


                                

                 2015年5月26日  筆者 吉田法泰