ど根性ガエル
朝、通勤しながら車の中でテレビ埼玉の「ど根性ガエル」を懐かしく見ているのですが、そこで、あることに気がつきました。 最近のアニメをあまり見ていないので、多少はずれた意見だったらすいません。 「ど根性ガエル」というのは、ご存知の方はご存知だと思いますが、主人公の「ひろし」とひょんなことからひろしのシャツに貼りついた平面ガエルの「ぴょん吉」の物語です。そこに、ドラえもんにおけるジャイアン的な「ゴリライモ」や、しずかちゃん的な(といってもしずかちゃんよりはおてんばですが…)「きょうこちゃん」、中学校の「南先生」「よしこ先生」、そして忘れちゃならない宝寿司の「梅さん」などというキャラが登場する、下町人情コメディーというような内容なのです。 で、何に気がついたかというと、それは「普通の生活が一番いい。」ということです。 たとえば、ひろしやぴょん吉に毎回さまざまな出来事がおこるわけですが、最後はやっぱり「ウチがいい」とか「金持ちにならなくてもいい」とか「偉くならなくてもいい」というオチがつきます。 例えば、ひろしが自分が金持ちの養子になれると思い、一所懸命金持ちに気に入られようとします。で、その金持ちから試験と称されてさまざまな苦労をさせられます。(例えば、ガソリンが値上がりするから車を人力で動かしなさいとか)で、結局金持ちの親なんかより、自分のかあちゃんが一番いい、とかそんな感じなものが多くて。 何か最近は、何事もない平和な日常は良くなくて、特別なことや特別な能力を持って毎日刺激があった方がいい、というような内容が多いような気がします。 それって、子供の発想だと思うんですよね。常に刺激がないとおもしろいと感じない。 昔の大人たちは(自分もですが)、確かに日常に非日常が入り込むのはおもしろいとは思いながらも、最後はやっぱり日常を平和に過ごすのが一番だ、という事を自覚していたと思うんです。 考えてみれば、仮面ライダーだって最初は普通の生活をしていたのに、改造人間にさせられて普通じゃなくなったから苦悩が始まるわけですよね。で、自分のような不幸な人間をなくすために戦う。そして、普通の平和な生活を求めようとするから僕らの味方だしかっこよかったわけです。 ところが、そこに「盗人にも三分の利」の理論を持ち込んで「悪は悪なりに理由がある」という見方をし始めて、なんだかマニアックな方向へ進んでいく。 確かに何が悪なのかわからない世の中だ、という理屈はわかります。でも、それは子供のうちから教えるべきことではないのではないかと思います。そういったところだけ、子供に大人の考え方を押し付け、肝心なことは子供のままの考えの大人が増えてきたように思えます。 自分ができなかったから子供に言えない、というのは詭弁だと思います。自分ができなかったから子供ができないというのはどういった理由からでしょうか。自分の子供はそういった問題を解決できるだけの能力と可能性を持っていないと、つまり自分より能力が低いと考えているのでしょうか? たとえ自分ができようとできまいと、子供には正しい考え方や感じ方というのを持ってほしいと思います。社会正義というのは、その時々で変わるものですが、他人を思いやり、他人を傷つけるものは許さない、といった範囲のことは十分普遍的だと思うのです。想像力や思いやりというのは、そういったところから養うものではないかと思います。 そういった考えは、やがて人の為になることをする、人の役にたちたいと思う人間になれることに繋がるとおもうのです。そうすれば、学歴だけ高くて、自分の夢が叶えられないからという理由で仕事をやめてしまうような若者も減ると思うのです。 だって、仕事というのは自分のためでもあるけど、人の為、社会の役に立つ為にするものだという気持ちを持てるようになると思うからです。他人様の役に立っている、というところか仕事のやりがいって生まれると思うのです。そうすれば職業に貴賎を感じることもないし(犯罪やスレスレの行為は除きますが)、誇りを持って仕事ができると思うんですよね。 おもしろければいい、という発想はお互いにできるだけ不快な思いをせず、適当に摩擦を避けていれば楽だ、という発想しか生まれないと思うのですが…。 やっぱり、普通の生活を送れることの方が、今の世の中「おかしなこと」なのかもしれません。 ま、古い人間のたわごとですがね。(*´Д`)=з