遠く高下島(コハド)とやかな海を眺める儒達山丘にこぢんまりした建物がある。ぐにゃぐにゃした道のそばで春ならの花がおりて、冬には雪が先に溶ける暖かい家“共生園”である。一に住んでいる家というを持ったこちらは色な理由で一人になった子供たちが世の中と共にする所である。そしてその子供たちのそばには時代と理念、思想を跳び越える人類愛を実践した乞食隊長尹致昊(ユンチホ)と朝鮮子供たちのお母さん尹鶴子さんの話がいつも共にする。


乞食隊長尹致昊(ユンチホ

咸平(ハムピョン)生まれである尹致昊は咸平宗家の子孫に生まれたが家は小作で生計をかろうじて維持する貧農出身だった。 そこに達した年にお父さんまで失って、孤家庭になった。 校をまともに通うことができないほど貧しかった彼は咸平で活動したアメリカ宣師ジュリアティン(Jullia Matrin)の助けで神を勉することになる。イエスを見習って大工になることを希望した尹致昊は木浦市湖南洞にみすぼらしいわらぶきの家を作って‘ナサレッ木工所’を開く。そのような大工尹致昊が乞食隊長になったのは19才だった1928年のことからだ。い寒さがっていた3. 尹致昊は木浦井橋の下で筵をかぶって雨を避けている7人の子供たちを見して汁ご飯を一膳ずつ食べさせた後、家に連れてきて共に生活する。これから共生園が始まった。


木浦は釜山、仁川と一に朝鮮の3大港で急激に展していたしこれによって多くの乞食と孤であふれ出た。 尹致昊するうわさががって行きするところない子供たちがナサレッ木工所にじ始めた。 彼は日のようにえる子供たちのためにテントを張って部屋をげていかなければならなかった。 そしてその年10月にに住んでいる家’という意の‘共生園’という看板をたてる。 子供たちをぞろぞろぶら下げて通う姿に乞食隊長とのニックネムがついたのもこの頃だ。


乞食隊長尹致昊


は子供たちの食べ物を探すために片っ端から仕事をしていき始めた。 飴をって生計をつないで、ぼろを拾って食べ物飯を集めて豚を育てた。皆が難しかった時期、近隣の人尹致昊と共生院子供たちを浮浪者取り扱ってわずかな摩擦がいた。共生園はそのような隣人たちを避けて1937年大盤洞現位置に無事に到着する前まであちこちを移して通わなければならなかった。尹致昊は生計の困難と周の偏見を勝ちいて子供たちを世話した。そしてそのような彼を支持して喜んで難しい道に同行した人がいたので、彼女がすぐに孤のお母さん、後尹鶴子になった田千鶴子さんだった。


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