日本に帰ってきておよそ20日が過ぎ、すっかりと日本の生活に馴染んできた所で、そろそろ旅の総括を書こうと思う。
実は一度2週間ほど前に書いたんやけど、どうも納得できずに公開してすぐ消してしまった。
今回も上手くかけるかは不安ではあるが、書き切りたい。
日本に帰ってきて早3週間
毎日おいしいご飯が食べれて、毎日暖かい湯船に入れて、毎日綺麗なベッドで寝れる。
旅の間ではこの三つがしっかり揃う日なんて本当に無かった。それ位贅沢な毎日を過ごしている。
旅に出ていた7ヶ月間という時間は僕にとって非常に特殊な時間で、また凄く特別な時間だったんだと改めて思う。
この225日という時間、海外を転々と気ままに周って色んなものを見て。今ふと考えてみる。
はて、自分は変わったのだろうか。
よく旅に出る理由に、自分探しであったり、海外を見て今の自分を変えたいなんてことを聞くけど。
この期間、果たして僕は変わったか。新しい自分を見つけることが出来たか。
おそらく自分の答えはNo
24年間生きてきた自分の人生のたった50分の1の時間を海外を旅した。やっぱりそれ位の時間では人の根本的な部分なんて変わりっこない訳であって。
じゃあ、僕は225日間で何も得たものは無かったのか??
それもまた答えはNoだ。
勿論である。
自分の持っている当たり前の概念、自分が日本で知らず知らずの内に身につけていた海外の印象。
そんなものをバンバン吹っ飛ばしてくれる毎日やったと思う。
百聞は一見にしかず
まさしくこれやったんや
反日運動が日本でも激化していたまっただ中で訪れた中国
連日日本のメディアが報道する日本国旗への放火、日本企業の打ち壊し
韓国のゲストハウスで会った日本人には、今中国に行くのは死にに行くようなものだとまで言われた。
でも実際に行ってみた中国はどうだったか
中国人は僕が日本人であることなんて何も気にしない。
普通に中国人の持つ文化で僕と接してくれる。
それは時に理不尽に感じることもある。理解できないこともある。でもそれは彼らが持つ文化なだけであって、僕が日本人だから差別を受けるなんてこともさらさら無いわけで。
ビリヤードをして仲良くなった中国人に聞いてみた
『今日本のメディアでは中国の反日運動がすごく問題視されてるんだ。君もやっぱり日本に対して良い印象は無いのかい??』
「あぁ、あれかい。あんなのは一部の奴が政府に動かされて勝手にやってるだけさ。確かに日本という国に関しては歴史的なこともあってあんまりいいイメージはない。
でも、日本人は嫌いじゃないぜ。だって、こうやって俺とお前も一緒にビリヤードやって楽しくやってるじゃないか。」
実際多くの仲良くなった中国人にこの質問を投げかけたけど、ほとんどが同じような答えだった。
国と国とは問題がある。でもそこに住む人と人って全員ではないにしろ問題なんて基本的には無いんだよなって。
イスラム教というものに触れて
今回、エジプト、パレスチナ、ヨルダン、イラン、UAE、トルコという6ヵ国のイスラム教の国を訪れた。
危険、テロ、一神教、断食
決して良いイメージを僕は持っていた訳では無かった。
湾岸戦争に始まり、同時多発テロから始まったイラク戦争、それに続くようにアメリカのイランは悪の枢軸国だと言う発言。
常に戦争をしてる。イスラム教徒ってきけんなんじゃねーの??
でも、世界三大宗教にしてそんな危険なイメージを持たれているイスラム教をこの目で実際に見てみたら
なんとまぁビックリ
凄く暖かいの。
街を歩いてても、お店で買い物してても、レストランでご飯を食べてても、常に誰かが声をかけてくれる。
少しでも道に迷ってたり、レストランのメニューが分からなかったりしたら、懇切丁寧に説明してくれる。
ありがとう、ありがとうと感謝しても、『これは神様の教えだから、俺達はやって当然のことをやっているだけさ』
そんなセリフが返ってくる。
イスラム教の教えで困っている人や巡礼者(外国人)には親切にしてあげなさい。というものがあるんだって。
そんな親切な人たちに対して日本人が持っているイメージは決して良いものではないと思う。
なんでなんや??
この言葉しか出てこなかった。
もっと彼らの持つ価値観や教えを理解し、正しい認識を持つことが必要なんじゃないかと思った。
東チベットで見せてもらった鳥葬
鳥が死んだ人を食べるのを見たという、聞いただけではただのグロ映像を見に行ったようにも思われるかもしれない。
でも実際にこの目で見た鳥葬は、全く似つかわしくない言葉だと思われるかもしれないけれど、心から美しいと思った。
その土地に住む人たちが持つ強い信仰心と無限の輪廻の世界。そしてそれらが生きつく厳しい高原地帯
それらの要素が混ざり合わさった環境で見た鳥葬、ただただ美しい物だった。
アーリア・ナーガルジュナ佐々井秀嶺と出会って
日本仏教界では異端児として問題視されている、インド仏教の頂点に立つ男
実際に会ってみたらどうだったか。
生まれて初めてイキガミを見た気分だった。生まれて初めて心から尊敬出来る人に出会った。
そして、この人を尊敬しこの人のやってきた活動や生き方を知れば知るほど、自分には到底真似できない。自分はこの人を超える坊さんにはなれないと絶望にも似たものを感じた。
それ位凄まじい人が日本では異端児として仏教界から批判を浴びている
自分の持っている世界のイメージと、実際に自分の目で見る世界は本当に違う。
行く前に持っていたイメージはやはり日本のテレビやインターネットを通じた情報ばっかり。
事実、パソコンを開けば世界中の景色や文化なんかを知ることが出来、お茶の間旅行だって可能なんじゃないかとさえ思ってしまう。
でも、それは人が見た景色を写真に収めたもの。人が感じとった文化や雰囲気を文字に起こしたものであって、実際に自分が見た景色や、自分が感じ取ったその国の文化や雰囲気は自分だけのものだった。
同時にその土地に友達と訪れていても、僕と友達が感じとるものは違う。
僕が見た景色や感じた文化なんかは間違いなく僕だけのもの。僕がその場にいたから得れたものだと思っている。
そんな意味でもやはりイメージとして持っている世界と実際に訪れて見る世界は別物。
だって訪れた世界はその時その瞬間の僕だけのものなんやから。
時にそれは自分にとってプラスになることもあれば、知ってがっかりするようなマイナスになることもある。
でもそれを知るということ。それが出来たことは自分にとって凄く価値のあることだったんじゃないかなと思う。
そしてその感じたことをただ感じたままにしておくのは勿体無い。
せっかくの経験も活かさなかったら意味が無い。
だからこそ、ボンヤリと見えて来たこれから自分がやって行きたいことについても少し触れようと思う。
仏教の国、ヒンズー教の国、イスラム教の国、キリスト教の国
色々な宗教を見せてもらった。
そして見れば見るほど自分が宗教者としてこれからどうそこに向き合っていけばいいのかということに対して漠然とした不安をずっと抱えていた。
だからこそ世界の宗教の良いところを学びたい、持って帰りたいって言う思いは常々持っていた。
そんな中で僕が一つ行き着いた答え。
それが
Open temple
という考え方。
仏教徒のお寺
ヒンズー教徒の寺院
イスラム教徒のモスク
キリスト教徒の教会
これらは基本的にいつでもだれでもお祈りが出来る施設やったし、暑い時間には人々が涼みに来る。
そんな人の生活の一部であり、また社交場の一つにもなっているところもあって、凄く開かれた施設であり、またいいもんだなぁと肌で感じてた。
でも、日本のお寺は中々そういう風にはなってないのが現状である。
もっと誰もが気軽に来れるような。
誰もが気軽にお祈りが出来て、人と人とが繋がりあえるようなお寺。
そんなお寺に出来ないものか。
自分の目で沢山の素晴らしい目指すところを見てきたんやから。そして自分が宗教者であるんやから。
少しでもそんなお寺にしていくことが出来たらもっと坊さんとして楽しい毎日が過ごせるんじゃないかな。
理想と現実のギャップ。
それにこれからたくさん悩まされると思う。
でも、せっかく見つけた自分のやりたいこと。
それに向かって今は挑戦して見てもいいんじゃないかな。
すぐには無理にでも、長い目で急がずやって行ったらいいじゃないか。
それが今僕が思っていることです。
長々と書いたけど、本当に自分の感じたことのほんの一部だけ。
子どもの笑顔やら、美味しいご飯やらも書きたかった。
しかも全然上手くまとめられてもいないと思う。
でも、今までずっと旅の間ブログを読んでくれていた人たちに向けて、旅を終えて一番感じたこと、今自分が思っていることを少しでも伝えることが出来れぼと思いかきました。少しでも伝わっていれば幸いです。
本当に今まで長い間ブログにお付き合いしていただきありがとうございました。
もしご縁があれば自分の口からもお話しさせていただきたいと思っているので、ぜひ声をかけてください。
こうやって最後まで書き続けることが出来た幸せを感じると共に、多くの人に感謝しこのブログを終えたいと思います。
12.7.2013 Takayuki Yasuda