アルビレオの日々 Panchama日誌

アルビレオの日々 Panchama日誌

武道家でありたいと願いつつも日々研鑽することなくあらゆる欲望に負けてしまう毎日、単なる怠け者です。そんな似非武道家の毎日を適当に書いていきます。

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 講習会も終わり、日常の稽古に戻りました。

 

微妙なところで以前の癖が出てきていました。講習会で指導を受けて出来ていたところも体で覚えていないので元に戻ったのでしょう。

 

部分修正出来たところがあっても、全体との調和の中で今まで出来た別の個所に歪が出ているのでしょう。

 

行きつ戻りつしながら向上していく技能。それをサポートしてくれるものは指導者であり、稽古量そのものです。

 

ある杖道家の著作からの引用ですが、
「稽古とは訓練に非ず 摺り込みである」

この言葉が身に沁みます。

 

土曜日2時間、日曜日2時間、そして、この三日間の稽古をもって先月からの特訓終了。時間を創ってくれた先生に感謝。

 

今日は面白い出来事が・・・。

七本目、抜き打ちしたと同時に窓の外で休んでいた数十羽の鳩達が一斉に飛び立つ。

あたかも自分の斬撃の気が伝わったかのように・・・。

ただ、先生は全く認めてはくれなかったのが残念。

 

単なる偶然と納得せざるを得ない。

 

この1か月の稽古中時々先生から面白い事を言われた。

曰く、「今の斬りでは敵は逃げました。」「今は斬れました。」

要は一歩の踏み込み、伸びのある斬りが必要と言うことであるが、先生からは距離は見えているのだろうと思う。それが居合道で言われるところの仮想敵ではないかと思う。

 

仮想敵については一昨年関東地方の某道場で八段位の範士の先生2名に聞いたことがあるが、想像とは違って見えるものではないようだ。でも、ポイントが見えてくるらしい。「ゾーン体験」に近いのかもしれない。仮想敵とは明確な人の形ではなく、抽象的な想像上の斬るべきポイントが見えるかどうかなのではないかと思えてくる。

 

今日もまだ本調子でなく、鼻水がやや出ます。

明日は杖道の自主稽古日。この体調では少しペースを落とそうかなと思います。

 

杖道を始めた理由の一つが相手との距離感と方向でした。

昨年卒業論文執筆のため、居合道高段者とのインタビューを企画実行した中で仮想敵の位置を把握するのは非常に難しいということを言われていましたが本当にそう思います。

そういったこともあって杖道も始めたのですが、実際に感じていることは相手がいる事で距離感が掴めるし相手も見えますね。

 

明日の夜は雅楽の稽古もあり、水曜日は結構忙しいです。雅楽は新しい曲に入りました。

今までの4拍子と違って変則的な2拍子+4拍子となります。そして、微妙な間が入るのでデジタルではない感覚の世界です。おまけに、雅楽の場合は最初に唱歌と言って曲をアカペラで歌えなければ始まりません。ただ、正月の儀式で直接使う曲目ではないので焦る状況ではないのが救いですが・・・。

 

 先週末合同稽古会に行ってきた。土曜夜は懇親会にも参加。多くの先生方の話を拝聴し、懇親を深めることが出来た。
 居合道と言う武道については、2月の昇段審査でも感じたことだがお互いに上達しようというアットホームな暖かさを感じるのはなぜだろう。直接対峙する場面がないからかもしれないがわからない。

 もしかしたら、これは私のような低段者に言えることで、高段者になれば道は険しく、指導も又厳しいものがあるのかもしれない。そういった意味で昨年までの居合道に対する気持もやや変わってきたように思える。

 昇段審査で感じた雰囲気を今一度味わいたくて5月には音更にも行ってきた。今回の稽古会も又同様であり、とても良かった。
 ただ、体調が最悪で特に今日は冷え込みが厳しく、地の底からの冷えを感じた。自分は元々寒さにはめっぽう弱く、今日も万全の態勢で臨んだがそれをはるかに超えていた。午後からは若干発熱もあったようで体の節々も敏感になり、思うような稽古も出来なかった。寒さ対策・・・これは次回の課題としよう。そうではあったが得るところも多かったのも事実。

 懇親会の話に戻るが、先生方曰く、どうも自分は高段者の誰か(二人)に似ているらしい。それを活かすにはどうしたらいいか、自分なりに考えた結果、いっそのこと「影武者」になったらどうだろうという思いに至った。
「影武者」・・・響きはいいのだが実際にそのような要望があるわけでもなく、技量が伴わないのでピンポイントでしか対応できないだろう。
それ以前に何のために・・・と考えると荒唐無稽な話で・・・・・ただの戯言としよう。


 その影武者と言う言葉で「影武者 徳川家康」という隆慶一郎氏の本があったことを思い出した。傾奇者前田慶次の作者と言った方がわかりやすいが、この本によると関ヶ原の戦いで本来の家康は討ち死にし、以後影武者が成りすまして江戸幕府を開いたというもの。この珍説は今回が初めてではなく、古くは明治時代に「史疑」と言う名で村岡素一郎と言う学者が発表した。
ただ、この本は奇書の類となり、すぐに発禁本となったそうである。

 この村岡素一郎氏は結果として明治政府から追放されたそうであり、そして、この村岡先生は流れ流れて根室市の花咲小学校の校長先生にもなったそうで知る人ぞ知る話。因みにこの話をある校長にしたら知っていたし、図書館の方でも把握しているようだ。明治の根室は雑多な人々がひしめき合っていたに違いない。


 昨夜の末広町、多くの町人たちが土曜の夜を満喫しようと賑っていたことを付け加えておこう。

 

今日の稽古は自分を入れて5名となった。自宅での稽古は部分的にしか出来ないのでいつも一本目だけは毎日やっているのだが、やはりずれが出てきていた。技は様々な動作の複合されたものであり、様々な動作の微妙なバランスの上に成り立っている。そのバランスがかみ合ったときに絶妙なものになっていくのだと思う。抜きつけにしても腰の位置や足の位置、右手の位置左手の位置と動作開始のタイミング等々こういったものは究極的にはデジタル化出来るものだと思う。理想的な技の動きとして秒単位で長さ、角度等々細かな細かく指定した手順書が出来るかもしれない。その通りに動くロボットも出来るかもしれない。ただ、それを人間にどのように移植するのだろうか。デジタル化されたものをアナログに変換することは大変なことであり最終的には自身の感覚で身に着けるしかないのではなかろうか。今日はそんなことを考えながら稽古をしていた。

今回の昇段試験で3名昇段したので部会の皆さんから祝ってもらった。

とても嬉しい。本来ならばとっくの昔に受審出来ていたのだが様々な事情から相当期間が経過してしまっていた。とりあえず区切りを付けようと思って受審した。

 

昨年受審を決意する頃は自分は自信があったので会場の雰囲気だけが気になっていた。

しかし、客観的な目で見る先生他第3者からは、夏に受審した方がいいのではないかというような意見も多く、自分としては何故なのか不思議だった。多くの意見は自分では気づかない癖がかなりあるようだった。修正に時間がかかることを懸念していたと思う。

 

そのこともあって指導の方もかなり力を入れてくれた。12月以降毎週修正されてきた。おかげで稽古量だけは十分だったと思う。最後になってやっと修正努力が実を結び、先生からも受審しても大丈夫と言われ、審査に臨むことが出来た。

 

今回は色々なことを学んだと思うが最も大きなことは「稽古は裏切らない」ということになる。

指導いただいた先生には本当に有り難いと思っている。

 

 秋に実施した高段者とのインタビュー、そして講習会での指導を通して学術的な観点で居合道を捉えてみようとしていたが、自身が新たな観点でどこまで出来るか再開してやってみようと思うようになった。理屈で考えていた部分は体感できるだろうか、そんなことを思いながら先月中旬より特訓を週2回受けている。その流れで今日が今年の初稽古。

 動作を考えながらやることが体感に繋がるのか、その支えになるのが反復練習なのだろうが…と思う。名人の動作はデジタル化出来るのだろうがそのデジタルデータをもって自身の動作に移行できるとは思えない。最大限出来ても見取り稽古だろうと思う。難しいものだ。

先月ある地方に行ってきた。別件で用事もあったのだが居合道の高段者の先生とお話をする機会があった。間合と仮想敵についてのお話だったが聞きごたえのあるお話だった。

 

制定居合ではだいたい6段くらいから仮想敵を意識する気持ちが大切だって。自分としてはそういったレベルではないし将来もあり得ないレベルなので体感的にはわからないが理論としてならばとてもよく理解できた。制定居合はそれぞれの技で間合は決まっているということは理解できる。教本を見ればわかることだから、そうか、だから審査員の先生方は教本通りに抜いているか審査するんだ。古流になるとそれぞれの演武者の解釈が入ってくるので同じ技でも違ってくるとの事だ。間合はそこから決まってくる。そして剣道との違いを意識して当てるんじゃなくて斬ることが求められるので間合はかなり近いと言っていたな。

鏡を見る稽古は目付が悪くなるから✖だ。いつもやっていたのでこれは教えなければならない。

 

夏以来、目標も遠のき、気が抜けて他の武道もやってみたくなっていた。

ただ、こうしてお話を聞きもう少し考えてみようと思う。又別の先生の話も聞いてみたい気もする今月末にそういった機会がありそうなので参加してみようかと思案中。

 

 

居合道の稽古をひとまず休んでいる。

技の習得を体感しながら頭で理解しながら技能に反映させることが出来るのかやってきたが結果として今のところ出来ていない。現実は身体が感覚として覚えて初めて頭で理解できるというプロセスになる。実際に技能をしながら頭で順序を追ってみたものの無理だった。

技能習得のプロセスの重要な部分は身体で感じていく中で要所要所で抽象的な言葉で納得するということになるのだろう。その辺をもう少し整理してみたい。

立禅とは別に新たに杖道を始めてみた。そこから何かわかるかもしれない。

最近ある道場で立禅を学ぶ機会を得た。

立禅は以前から興味があり、以前大変お世話になった空手道場で指導を受けていた中で自身の体格ハンディをカバーしようとして立禅を自己流でやっていた事もあった。でも、ある事情から自己流を中止した。その理由なのだが、立禅は脳内イメージを大事にする事から仮想現実が身近なものとなり、下手なやり方では精神に障害が起きる懸念があるからだ。

そういったことから何年もやっていなかったが今回縁あって正しい立禅を学ぶ事が可能となった。おかげで今日も約20分、静かな公園の木の下で行う事が出来た。来月も又細かい部分の指導を受ける機会がありそうなので楽しみだ。

立禅は様々な武道をやる人も学んでおり、いわば根幹部分に影響があるものではないかと思う。自分としては立禅、揺、這、練、推手まで学ぶ事が出来たら御の字と思っている。