住人や花の好きな方には秘密の花園でもなんでもない。

南国市の十市パークタウンに面した、石土池。


西の山裾に石土(いわつち)神社があり、石土池の名の由来かと思う。

6月に通りかかると、
ホテイアオイが満開だった。
水に浮かんでいるのだけど、
大きな池の南半分を覆うぐらい繁茂しているから
水鳥が上を歩いている。

この池には蓮も咲く。
その年の気候によって、
ホテイアオイも蓮も、
増えたり減ったりする。

蓮がたくさんになると、
この世のものとは思われない光景となる。

今年、ホテイアオイの薄紫と青が混じったような花は
西の水路、つまり石土神社の前も埋め尽くしている。

ただ、観光地でもなんでもないので、
ビュースポットは作られていない。
池なら東側に沿って南北を結ぶ細めの道路から、西の水路は途中にある橋からが見やすい。
池の南面は、道路との目隠しなのか、生垣で遮断されている。
よく、亀が横断している道路。

さらに西には湿地があり、
野鳥なども多そうだ。

私は団地の開発前を憶えていない。その頃から蓮の池があったなら、異界感は相当なものだったろう。

十市パークタウン近辺の
氏神さまは、池の北東に鎮座する新宮神社、熊野系の神さま。

西の石土神社境内には、
石槌山の石土神社との関係で
不思議なことが書かれている。

もっとも、沿岸を東へちょっと行ったところの山上にある
琴平神社にも、讃岐こんぴらさんとの不思議なつながりが
言われているので、この十市沿岸は個人的に不思議エリアとなっている。

十市といえば、6月はヤマモモのシーズン。春野赤岡線にあるローソンの敷地辺りで、良心市に地元のヤマモモが出ている。
 

 

2019年の夏、やっと、にこ淵へ行く決意がついた。

おそらく、行かないだろうと思っていたのに。


積極的に取材したこともない。

ここは地元の人々が畏怖する神域であり、
龍神さまを怒らせないように、
道を聞かれても知らないと答えるほど、
人が踏み込むことを避けてきた滝。

そのことに地元も自治体も躊躇が
あったものの、あまりにも訪れる人が
増えたため、外圧に押し切られる形で
国道に看板を立てたのだ。

今回、思い切ったのは
遠くから来た友人をもてなすため。
自分の気持ちを切り替えるためでもあった。

現地への降り口に着くと、それまでほとんど人に会わなかったのに、数人の観光客がいる。
車を近くの駐車場に停めることができた。
かなり手前にも駐車場が複数ある。

歩いて滝に降りるのは、かなりきついと聞いていた。
実際に降りてみると、手すりや階段など、手を加えている。
数年前とは比べものにならないだろう。

数日降った雨のため、周囲の山にゴウゴウと響き渡る滝。
滝壺に光が射す時間を選んだが、ごらんのように曇り。
明るいブルーにはならなかった。
観光写真で見ていた滝の手前の白い岩は、
すっかり隠れている。

数人のグループが、入れ替わり立ち替わり
降りてくる。外国人もいる。高齢の方も。
それ自体が巡礼のようだ。

真夏だが、この日は滝に入って泳ぐような
闖入者はおらず。怒ると突然雨を降らせるとも聞く。

お客さんたちが、こうして遠くから
やってくるのを、龍神さまは
面白がっているのやもしれない。
不思議な見ものだ。

いずれにしても登り降りは楽ではない。
滑ることもあるだろう。
いまはこのような状態だが、また数年たったら、
いったいどんなことになっているか。

四国山地の奥深く。
昭和の時代、植樹祭に向けて、この近くにほどのグリーンパークなるものができた。
その時すでに、にこ淵への道も
開かれてしまったのだろう。

一度開かれた魅力的な場所は、
もう隠すことができない。

この滝の水も、仁淀川へと
集まる無数の水流のひとつである。




愛宕商店街の道端に、ちょこんと鳥が乗った標柱がある。



県内のところどころで見かける、この鳥のオブジェやイラスト。
いきさつを知らない世代が増えた。

これは、ヤイロチョウ。漢字では八色鳥。
高知県の、県の鳥に指定されている渡り鳥である。

生きたヤイロチョウは、県西部の山奥とかでないと、まず目にする機会はない。
高知市の動物園に一羽。

さて、この道路沿いの標柱やなんかは、
なぜあるのかというと。
昭和の終わりに、時の中内知事が打ち出した、国民休暇県構想の名残り。
つまり、高知の自然を日本のリゾートにと。

声はすれども姿が見えず、というのがヤイロチョウ。構想もあまり盛り上がらなかったが、ちょっと機運が高まってくるかというところで知事が交代し、徐々に忘れられていった。

Uターンした友人が、この構想を、
県民こぞって椰子の木陰でお昼寝しているようだ、と言ったのを思い出す。

標柱のヤイロチョウ、番号の由来は知らない。愛宕商店街のは1番である。
桂浜へ上がる花街道の直線道路には
14番が、坂の途中、信号より少し下に15番がいる。


こちらは高知龍馬空港の近く。
平面のロゴマークは公募したデザイン。
構想が出た当時、
印刷物がまだアナログ時代で
色の指定がややこしかったことも思い出してしまう。

高知県が、野生のヤイロチョウにとっては
住みやすい環境であることを願う。



仁淀川、新荘川、四万十川、吉野川、伊尾木川といった
川筋に沿って、山間部に茶畑が点在している。

新茶は早い所では4月20日頃から摘まれ始める。




写真は2年前に仁淀川町で撮ったもの。
池川の奥の山で。

紅茶を言う時に、ストロングと言ったりするが、
土佐茶も日本のお茶の中ではストロングだと思う。
渋みや香りが強い。植物としての生命力が強い。
寒暖の差が大きく、雨も晴れも多く、蛇紋岩質の斜面が続く高知県。
清純な山の水。
畝に仕立てて管理はしても、野生の力はどんなにか強いことだろう。
まして、あれほど切られても再生するお茶の木。

お茶屋さんはブレンドが命なので、
そのあたり、上手にバランスを取っている。
個人的には、山で買うお茶よりも、お茶屋さんのが好きだ。

JAへ出すお茶は、その日に茶刈り機で摘んだものを
現地の茶工場ですぐさま荒茶に仕上げ、
高知市の全農へ運ぶ。ここで長期保存ができる。
折を見て冷蔵庫から出し、火入れして仕上げ、出荷する。

今の時期、新茶の買い付けも、連日この場所で行われている。
テイスティングをして、入札する。
かつては静岡の茶問屋がほとんどのお茶を買っていたと聞く。
高知のお茶屋さんも、ここで買い付ける。

土佐茶は長く、静岡茶や宇治茶に使われてきた。
それで生産者が成り立っていた面もある。

10年ほど前から、「土佐茶」というブランドを
県産茶葉にかぶせるようになった。
以前から動きはあったが、まとまっていなかった。

産地をきちんと表示するようになった時代の流れもあるのだろうが、
ずいぶん時間がかかったものである。

茶農家が産地カフェを開いて街へも展開したり、
茶摘みの体験観光も少し。

ヤブキタ種とは異なる山茶を栽培する生産者もいる。
中には台湾茶のような芳香を持つお茶もあり、
時々無性に飲みたくなる。

土佐茶のブランド化で、ペットボトルやティーバッグが
量販店向けに販売され、市民権を得た。
きっとこういうことは、全国的な動きなのだろうけど。

それでも山の生産現場は、ぎりぎりだと思われる。

茶畑になる前は、多くがミツマタの畑だった。
お札の原料として、国が買ってくれていたから。
明治時代に吉井源太らが、殖産興業の一貫で奨励した。

まだ焼き畑全盛の時代である。
ミツマタは山を焼いて2番目ぐらいに植える作物では
なかっただろうか。




さて、お茶の次には何が栽培されるのだろう。
それとも。
次があってもいいが、お茶がきちんと残っていくように
願っている。

県立高知小津高校。

その南西の校門横に、かつての開成館から移築した
木造の門と塀の一部が建っている。




開成館とは、土佐藩の後藤象二郎らが
慶応2年、殖産興業・富国強兵を目指して造った組織。
その建物は高知市の九反田にあった。

小津高校は明治6年に東京日本橋の土佐山内家邸内に
「海南私塾」として創立されたのが始まり。
これが明治13年に九反田の旧開成館跡へ移転し、
明治17年には海南学校と名を改める。



学校が城北中学校と合併し、現在地(城北町)へ移転したのは昭和7年。
県立海南中学校となり、昭和24年に県立高知小津高校となった。

開成館の門が学校の門前に移築されたのは、昭和15年のことである。
そのままの場所にあったなら、高知大空襲で消失していただろう。

海南中学校は海軍を目指す若者たちが
憧れた学校であった。

小津高校とどういう関連かはわからないが、
校庭から掘り出された砲身が、開成門の横に展示されている。
出土品である。


開成門は、年に3回開くことになっている。
小津高校の卒業式と入学式、そして創立記念日である。
11月らしいが、ホームページには明記されず。



この写真は卒業式の日に撮影したもの。

ところで、この辺りの地名を「新屋敷」という。
なぜ新屋敷なのかは、また改めて。