何度かブログを見にきたこともあったが、実際になにかを書いたりしたわけでもなく、すぐにスワイプで画面を消していた。
ただ、今日は少し気分が違った。ただそれだけのことだが、周囲から見れば0と1の違い。
いや、むしろ誰かに発見されるまではシュレディンガーの猫。0か1かすらわからないなにがしかにしか過ぎない。
それでもいい。自分のことを記録するブログだ。それも蚊帳の外で。誰が文句を言おう。
年齢こそそこそこいい大人になった自分だが、中身は大して変わっていない。むしろ角が取れ丸くなりつつある気がして、それを退化と言えなくもないとすら思っている。
まあただ、仕事の仕方を覚え、担任も経験し、私立でも公立でも中学でも高校でも教えたことから、少し見えてきたこともある。
自分は果たして、一生この仕事をしていくのだろうか?
先だって左足首を痛め、そのことを何の気なしに授業で話したところ、生徒が休み時間に荷物を取りに来てくれたり、次の教室に持って行ったりしてくれるようになった。思いやりを持ってくれたのだ。
しかし…果たしてそれは教師の功績だろうか?
たしかに、キッカケは作った。しかし、それはあくまでキッカケに過ぎない。それも、何も考えずに発した何気ない一言だ。キッカケを作ることが教師の役割だともいえるが、逆に別の何気ない一言が生徒を傷つけていたら?
こう考えると、やはり教師というのはほとほと因果な商売だと言わざるを得ないのだ。
生徒の中で自分を好いてくれる生徒も出てきた。しかしそれはむしろ、好きになるよう仕向けているのだ。そしてまた、それをいいことにその子たちを都合よく使ったり、嫌な役割を飲んでやってもらったりしている。
果たしてそれは人間としてよろしいのでしょうか?
同僚からは上手い教室運営だと言われることもある。これがいいことなのでしょうか?
こういうことを考えるたびに、初任のときの生活指導主任が「教員ってのは『人たらし』にならなきゃダメだ」と言っていたのを思い出す。人をたぶらかして自分のいいようにコントロールする。それが教師の仕事だと。頭では分かっていたつもりだったが、四年近くかかってようやく身に染みてきた。
その人がそういうってことは、それでいいのかもしれない、と考える自分もいる。でも逆に、それって、人としてはただの小狡いヤツに過ぎないのではないか…?と訝しむ自分もまた存在する。
なんだかんだと悩みながら、明日もまた生徒に笑顔を振りまく6時間が待っている。欺瞞というのでしょうか、そんなに悩まなくていいのでしょうか。
生徒にとってよりよい試験とは何なのだろうか。日々考える。



試験を行う意義は、その段階における適正な評価を下し、学習の進捗を測ることである。教育は評価をすることで学習活動の定着度や生徒観、指導方針などを決定していく。



そもそも評価には三種類ある。それぞれ診断的評価、形成的評価、総括的評価と呼ばれ、このうち最も重要な総括的評価にあたるのが四半期ごとに行われる試験・考査なのである。



幾度かの評価を行ってきた身として、生徒たちに正しい評価を下すことが出来たかと言えば、それはNoとしか言えない。何故なら、その評価を下す前の段階、授業の段階から我々はすでに平等な授業をすることが出来ていないからである。



もちろんこう書くと、筆者の怠慢や贔屓を疑う方も出てくるだろう。無理もない。教員は自分の授業に自信を持ち、かつその授業に差異がないよう心がけるのが常だからだ。



私だってそうしている。しかし、授業の成立は教師のみではなし得ない。



すなわち、生徒という要素が不可欠なのだ。



現代科学は不確定要素をできる限り少なくするためにデータを取り、それによって得た莫大なデータベースから傾向を測りとることによって無意識的に行ってきたことを次々と意識下に従えてきた。



しかし、授業はそうした物事を全て否定するような要素を孕んでいる。生徒は他の生徒や携帯電子端末などから仕入れた情報をすぐさま教師に投げかけてくる。雑談からイマジネーションを発展させて大いに盛り上がることもある。ふとした手の触れ合いから大げんかに発展することだってある。生徒という存在は、科学的なそれからは程遠い要素を孕んでいる。


さらに言えば、昨今喧伝されるアクティブ・ラーニングは生徒の内発的な意欲や発言を促す手法である。教師の導くままに進む学習とは、対極に位置していると言っても過言ではない。そして、そうした学習法に対する教育的な評価はどうしても「この姿勢が素晴らしい」「ここでの発言の質がよかった」など、点数で示される従来的な教育評価と比して間接的で曖昧なものにならざるをえない。



こうしたことを乗り越え完全に適正な「評価」を下すことは、現状の評価法ではほぼ不可能である。まずもって、教育の「トレンド」が「個に応じた指導」に向かうなかで、画一化の権化のような「定期テスト」という存在が、それこそ乖離したものになっているからだ。



しかし、それをしなければならない教師に求められるもの。これは各々少しずつ違って然るべきものであると考えるから断定は避けるが、私の意見をざっくりと言えば「俗」と「雅」を巧みに行き来しながらも「上品」を貫くことで生徒を導き、さらに評価をもくだす、というところだ。



教師における「俗」な部分とは、いわゆる人間性と呼ばれるものである。かつて教師に付与されていた絶対的な権威が崩壊しつつある昨今、教師はもはや聖職ではなくなってきている。かつまた、情報化社会の只中で生のコミュニケーションが不足し、生徒は生のコミュニケーションが産む暖かさを渇望している。だからこそ、味のある、情感豊かで思いやりに満ちた教師こそ、生徒が、のみならず社会全体が求める教師像なのではないか。



しかしもちろん、指導的立場として教師は生徒に対して下手に出ることは許されない。生徒に決して迎合しない「雅」な、生徒より常に一段高いレベルの姿勢を保ち続ける必要もある。まあ、この一段高いレベルというのが集団や個によって変わるのでまた難しいところなのだが。



教育評価を行っていく上で、私はこの「雅」の部分こそ大切にしなければならないのではないかと考える。俗っぽい部分は時には求められるのだが、最低でも生徒に「ああ、この人の本質は上品なところにあるのだ」と思わせなければならない。その上で、上品な世界を常に見せ続けられる人間性の向上を目指して、現状頑張っているところである。