朝の冷ややかな風が恨みでもあるかのように私に吹き付ける。
小さな無数の手にビンタされているような感触を味わう。
もう年明けから約1年がすぎてしまった
人生とは光の煌めきのような儚いものである。
趣深い気持ちに浸りながら駅までの学路を南アフリカのダチョウも驚きの全力疾走をしていた所。
目の前に単数形の女学生の姿があった。
私と同い年ほどのその女学生はスカートの裾がリュックサックに引っかかっていた。
要は足が通常より多く見えてしまっていたのである。
これを見て男共の中には何やら正の方向の感情、いや性の方向の感情を覚える害虫以下の下衆も一定数いるらしい。
だが私には男心がわからぬ。
ただただ、心から源泉のように湧き上がる善意から注意しようとして声をかけた瞬間。
彼女と目が合った。
彼女はランドセルを背負っていた頃の知り合いであった。
「気まずい」
その感情が私の心を闇金の取り立て業者の如くノックした。
いや、焦りは禁物だ。自称進学生たるもの、どんな時でも理知的でならねば。
「裾、引っかかってますよ。」
私はそれだけを取り憑かれたような抑揚の無い声で伝え、彼女を抜かして消え去った。
……しかしながらやはり、後々かなり反省した。
これは大変失礼なことをしてしまったと。
昔の知り合いとはいえ、挨拶をするべきではなかったのかと。
もし相手がデスノートを持っていたら私は40秒後に命の灯火が消えていただろう。
そのぐらいの不躾な態度であった。
だけれども、何時までもネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチネチ後悔を続けても精神を削るだけだ。
そこで今回は私の精神を守るため、先程の行動を正当化してみようと思う。
そこで論点となるのは
「知り合いだったにも関わらず、挨拶をしないのは如何なものか」
という点だ。
これに関して、私から提唱させていただきたい問題がある。
「SAKOM(数年前に 会って以来の人の 顔を 覚えているのか 問題)」
ここからは医学知識の欠片も無い私の自論にはなるが、まずは聞いて欲しい。
前提として、人の記憶とは「意味」が結びついていないと忘れ去られてしまう。
例えば「初めて好きになった人」として初恋のあの子のことを覚えている人も多いだろう。
それは「初めて好きになった人」という意味が「あの子」という存在に結びついているから覚えているわけである。
反対に、意味の無い不規則な数列などは忘れてしまう人が多いのもそのせいであると言える。
元の話に戻ろう。
例の彼女にとっては、小学校時代の私に意味なんぞ無いはずだ。
カースト上位で輝きに満ちていた彼女と、休み時間も教室でメダカの卵を一人で眺めていた私。
立場を物理的な高度で表現するならば、
彼女がいたのが麻布台ヒルズ森JPタワーの最上階、
私がいたのが秋田県の田沢湖の最深部と言ったところだろう。
仮に私のことを認識していたとして、大した意味など私に結びつけていないであろう。
つまりである。彼女はおそらく私という生命体のことを覚えていない。
ということは
彼女にとって私はあの場でただスカートの引っ掛かりを注意したただの親切な通行人Qとなる。
彼女にとって私は正しい行動をしただけの人間である。
行動の正当化が完了しました。
晴れ渡る心がある。
私には何も罪などなかった。
もう安心だ。
彼女は私に対して恨みを持つことがない。
私の、勝利である。
スゥッと部屋の中がアフリカのサバンナに変化した気がした。
ダチョウになった気分だ。
何者も自分の邪魔をしない広大な大地を走り抜ける、一羽のダチョウ。
それが私であるかのように、広々とした気分だ。
もはや私の心に絡みつくものはなくなった。
午後11時
これで私は心置き無く、8時間の眠りにつける。
では皆様、おやすみなさい。
良いノンレム睡眠を。