昭和33年 オフクロと結婚と同時に千葉の野田から大阪の豊中に転勤。

というか、大阪に転勤することをきっかけに結婚したようだ。
二人は会社が同じ。職場は異なるものの(営業と総務)、やりとりすることがあったらしい。

昭和33年といえば 戦争が終わってからまだ13年しかたっていない。
当時って どんな感じだったのだろうか。

おいらがモノゴコロついたころは 白黒テレビだった。
電話こそ中学生のときに家に引いたけど、
クーラーや車を買ったのは大学生になってから。
毎年 少しずつ 新しいモノが増えていく時代だった。

新しいモノが家にくると、ワクワクドキドキしたものだ。

我が息子たちはどうなんだろうか。

少なくとも、生まれたときから 電話、テレビ、クーラー、車 はある。

どう思っているんだろうか。考える対象にすらならない、当たり前のことなんだろう。

3年前の夏に倒れた。
一人暮らしだった。そのまま入院。
退院後から老人ホームでの生活となった。

およそ家ではしゃべらない人だった。会話を楽しむ人ではなかった。

もしかしたら子供の頃、家族の団欒を知らなかったんじゃないだろうか。
家族との会話をほとんどしたことがなかったんじゃないだろうか。

7人兄弟姉妹のど真ん中 三男坊。というのもあっただろう。

息子(ワタシ)と娘(ワタシの妹)に対して、話しかけるとか説教するとかをしない人だった。
おかげで、ワタシ自身 自分の息子たちにどんな感じで話しかけるものかずっとわからなかった。自分の親からどうこうされた経験がないので、どうしていいかわからないんだ。
せいぜいTVドラマの中の世界をそれらしくコピーする程度かな。

「自分が○○○されたとおりにしか ○○○することは出来ない」
って意味が やっとわかった。
プレミアム黒糖まんじゅう

川口駅西口のセブンイレブンで買っていた。
(何故か今は売ってない。
 他のセブンにはまだあるんだろうか。)

駅前広場でもぐもぐ食べて、一口お茶を飲む。
そして、そのまま図書館へ。

勉強前におなかいっぱいにはしない。
甘いものでアタマに栄養補給。
こしあん大好きなんで。



太郎焼き

前回のシステム監査試験の時からいただいてました。

川口駅西口のデッキ正面のお店。
確か… 昔は一個120円。今150円。

ちょっとお腹がすいたとき、一つ買って食べていた。
そのあと、川口図書館へ。

食べてる最中はいつも「(勉強って)こんなんでいいのかなぁ」と思っていたような気がする。






受験勉強中にずっと使っていたシャープペン。
こいつと一緒に勉強して、一緒に試験を受けた。

ところが、試験終了後の何日か経ったある日、突然に壊れちゃったんだ。

捨てるに忍びなくてまだ机の上に残している。


ありがとね。

そうだ、湯島天神に納めてこよう。









それは"リュック"
流行りのビジネスリュック

今使っているのは三代目になるかな

お弁当
辞書
テキスト
問題集
六法
筆記用具
タオル
手帳
こずかい帳
折り畳み傘
印鑑
朱肉
自宅のキー
車のキー
電卓
スマホの電源ケーブル
名刺
ポケットティッシュ
扇子
読みかけの本

なんでもかんでもぶちこんで持ち運んでいた。
時にはノートパソコンも。

けっこうな重さになってしまうこともあったけど なんとか背負っていた。
これだけのものを運ぶことができるのはリュックならでは。
あれがない、これがない ということなく勉強に勤しむことができました。

ひとえにリュック君のおかげです。





それは"筆箱"

頼りになる奴っつうわけではないんだけど、ずっと一緒にいた同志。


実はメガネケース
メガネを購入したときにオマケでもらったやつ。

丁度 ペンの長さなんだよね。
軽いし、丈夫だし、かさばらないし
マグネット式で開け閉めもカンタン。
我ながらチョー優れものだと思う。

だから今でも相棒




学生の時、菅平に行く急行列車での出来事を思い出した。


列車は信州に向かう行楽客で一杯だった。

もうすぐお昼。
当時はコンビニ等ない時代。駅弁をあらかじめ買っていくか、途中で買い求めるかどちらか。

昼前頃に高崎駅に着いた。

あるボックス席の家族とおもわれるグループが駅のホームで「高崎だるま弁当」を買って、皆で楽しく食事を始めた。

オイラはまだそれほど空腹ではなかったので、買いそびれたというかなんというか。


ところが、回りの客は誰ひとり買わない。

列車一両の中でひとつのボックス席だけお弁当を食べているってのは、なんかヘン。ちょっと異様な感じだった。


その理由はすぐにわかった。

横川駅で停車したとき、例の家族以外の全員がホームへ走り、釜飯を買ったんだ。
オイラは何がなんだかわからずに、回りの勢いに乗せられてその釜飯を買った。

そこからは列車内は楽しいお昼の時間。
みんな楽しみにしていた釜飯を美味しそうに、楽しそうにワイワイと…って感じ。


例の家族は一転してなんかくら~い雰囲気。気の毒なくらい静かというか黙り込んじゃった。

横川駅の峠の釜飯との出会い。
ちょっと切ない話。

知らないっていうことは、時にとてもザンコクな結果をもたらすんだと思い知らされた。



以後、信州へ行くときは必ず釜飯食べてます。

集まったヒマなオヤジは 15名。
(学生時代は最大で60名くらい)

みんな 50歳越えて
白髪 もしくは 禿げ アタマ。


初めて菅平に登ったとき、たくさんのコスモスが咲いていたのがとても印象的で覚えている。
冬にはスキー場のゲレンデとなる山肌で、そこここに咲いたコスモスが風になびいて揺れていた。
東京はまだまだ暑かったけど、ここ高原ではもう夏は終わりなんだな と思った。


昔は土がむき出しのグランドだったのが、今では総芝生でうそみたい。