最高裁:小学生が蹴ったボールでバイク転倒、死亡、親の責任/未成年者等の監督者責任(2) | なか2656のブログ

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1.最高裁判決が出される
本日(4月9日)、ネットで新聞紙各紙をみたところ、先般、このブログ記事でとりあげた、愛媛県今治市の市立小学校の校庭で放課後に友人達とサッカーをしていた小学生(当時11歳)が蹴ったボールが門扉を飛び越えて道路に飛び出し、80代の男性がバイクで通りかかり、転倒し骨折をする事故を負い、その後、その男性が認知症の症状が出て肺炎で亡くなったという事件について、最高裁判決がでたとの報道に接しました。

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また、本日、裁判所ウェブサイトは、この最高裁判決をサイト上に掲載しました。このように裁判所が極めて迅速な対応を示したことは、この判決が今後、いわゆる調査官解説として取り上げられ、わが国の裁判所の“お墨付き”の「判例」として、ある意味オフィシャルに今後の裁判等で使われることを示しています。

・最高裁第一小法廷平成27年4月9日判決・平成24(受)1948号・損害賠償請求事件|裁判所サイト

最高裁の判決は、結論として、“親は未成年者の監督義務者等の責任(民法714条1項)を怠らなかったとして、その責任を否定する”という内容でした。

・小6蹴ったボールよけ死亡、両親の監督責任なし|読売新聞
・子の事故、親の責任どこまで 最高裁判断、今後に影響も|朝日新聞

2.今回の最高裁判決を考える
先般のブログ記事で書いたように、従来の判例は、主に被害者救済の観点から、この民法714条に基づく監督義務者の責任を、裁判において、かなり幅広に認定していました。

しかし、今回の最高裁判決は、それと大きく異なる判断を示したものですので、今後の民事訴訟のあり方や、全国で日々発生するこのような同種の事件・事故における行政・民間などの紛争解決の実務についての大きな指針となると思われます。もちろん民事法の不法行為等に関する学問分野におけるインパクトも、とても大きいのではないかと思います。

なお、先般のブログ記事でも引用したとおり、従来の判例が、「普通は、未成年者よりは監督義務者(親)の方が資力を有している場合が多いであろうから、裁判例でも比較的高い年齢の未成年者についてまで、監督義務者の責任を認めようとする傾向にある」(近江幸治『民法講義Ⅳ[第2版]』215頁)ことと指摘されていました。

それに対して、今回の最高裁判決は、親の監督義務者の責任を否定したわけですが、その理由づけとして、とくにつぎの「また」以下の部分が個人的には気になります。

『また,親権者の直接的な監視下にない子の行動についての日頃の指導監督は,ある程度一般的なものとならざるを得ないから,通常は人身に危険が及ぶものとはみられない行為によってたまたま人身に損害を生じさせた場合は,当該行為について具体的に予見可能であるなど特別の事情が認められない限り,子に対する監督義務を尽くしていなかったとすべきではない。』

『C(=サッカーボールを蹴った当時11歳の小学生の少年)の父母である上告人らは,危険な行為に及ばないよう日頃からCに通常のしつけをしていたというのであり,Cの本件における行為について具体的に予見可能であったなどの特別の事情があったこともうかがわれない。』

この「また」以下は、分解してみると、「通常は人身に危険が及ぶものとはみられない行為」(=『特別の事情』により生じた『他人の権利または法律上保護される利益を侵害した行為』)「によってたまたま人身に損害(『損害』)を生じさせた場合は、「当該行為について具体的に予見可能であるなど特別の事情」『特別の事情』「が認められない限り,子に対する監督義務を尽くしていなかったとすべきではない」としています。

3.民法714条の責任無能力者の監督者責任の構造と限界
(1)「補充的な責任」と「過失責任」
この部分は、民法714条の責任無能力者の監督者責任は、不法行為を行った未成年者や精神障害者に責任能力(=自らの行為の責任を弁識するに足りる知能)がない場合に、その無能力者を監督すべき法定の監督義務者(714条1項)または代理の監督者(714条2項)が、その無能力者が被害者に加えた損害を賠償するものとしており、過失責任であり、実質的には「他人の行為の責任」であるという、監督者責任の構造と限界の問題に触れているようにも思われます。

つまり、このように、民法714条の監督者責任のもつ構造とのひとつとして、加害者本人に責任能力が否定された場合に発生する、「補充的な責任」であることと、もうひとつは、未成年者等の責任無能力者の「監督者責任」である以上は、親権者としての監護・教育義務(民法820条)を怠ったという意味での「過失責任」であると解されています(近江・同214頁)。

(2)昭和49年の判例
このような民法714条の監督者責任の2つの構造から、判例は、15歳の少年が小遣い欲しさから中学一年生を殺害した事件において、“未成年者が責任能力を有する場合であっても、監督責任者の義務違反を認めうる場合は、監督義務者について民法709条に基づく不法行為責任が成立すると解するのが相当”として、未成年者と監護義務者の双方の責任を認めるという、民法714条の監督責任者の限界の場面にある判断を示しているものがあります(最高裁昭和49年3月22日)。

この昭和49年の判例は、監督者責任の構造と限界の問題について、未成年者に責任を認めると同時に監督義務者にも責任を認めたため、被害者救済のための道を開いたといえるでしょう。

(3)平成18年の判例
しかしその一方で、より近年の判例として、19歳を超えてから少年院から仮退院し、以後は特段の非行事実がみられなかった未成年者が、同年齢の未成年者ら3名と集団で暴行を加えた傷害事件(事件当時19歳4か月)において、その親権者が当該犯罪を予測することはできなかったなどの事情のもとにおいて、当該親権者の監督義務者としての責任を否定した判例があります(最高裁平成18年2月24日・判時1927号63頁)。

この平成18年の判例は、親権者の監督義務者の責任(とくに過失責任)を否定する理由の部分として、つぎのように述べています。

『被上告人(=親権者)らにおいて,本件事件当時,甲らが本件事件のような犯罪を犯すことを予測し得る事情があったということはできない』

この平成18年の判例に関しては、「ただし、親の709条の監督義務違反は、結果から単純に肯定されるべきでなく、実際に責任無能力者に対してコントロールが不可能な場合には否定されるべきである」と指摘されています(近江・同216頁)。

このように、従来、民法714条の監督義務者の責任が争点となる裁判においては、原則として、被害者救済のために、より資力のあるであろう監督義務者に対する責任を認めようとする方向の判例が出されてきました。

しかし、監督義務者の責任の構造の問題から、昭和49年、平成18年の判例のように、限界事例であろうと思われるような事案に対しては、その限界を乗り越えるとも思われる判例も現れています。

とくに平成18年の判例の事案は、判決文などを読むと、傷害事件の発生を親権者が予見することが困難な事案であったようであり、親権者が未成年者に対して「コントロールが不可能な場面」であったようです。

(4)今回の最高裁判決
この平成18年の判決も『(未成年者)が本件事件のような犯罪を犯すことを(親権者が)予測し得る事情があったということはできない』と判示していますが、この部分をより詳しく述べたのが、今回の最高裁判決の「また」以下に繋がっているのではないかと思われます。

すなわち、この「また」以下の部分です。

『特別の事情』により生じた『他人の権利または法律上保護される利益を侵害した行為』によってたまたま人身に『損害』を生じさせた場合は、「当該行為について具体的に予見可能であるなど」『特別の事情』「が認められない限り,子に対する監督義務を尽くしていなかったとすべきではない」

そのような意味では、今回の最高裁判決は、平成18年の判例に近い、民法714条の監督義務者の責任の構造に関する限界事例のひとつなのだろうかと思いました。

4.再び民事上の不法行為責任について考える‐過失責任主義と無過失責任主義
(1)過失責任主義の原則
なお、民法の不法行為の部分を勉強していると、民事上の不法行為責任の目的は「損害の公平な填補」であるとされ、大原則として、「過失責任主義」に基づくとされています。

つまり、民法の冒頭の総則の部分で、民法の三大原則というものを習うのですが、①所有権絶対、②私的自治、③過失責任の原則、の3つが大原則とされています(このあたりで、私を含めて一般的な学部生は民法に対して「目が点」になるのですが)。

この「私的自治」とは、“当事者の自由意思に基づいて私法上の法律関係を形成できるという原則”です。また、「過失責任の原則」とは、これは文字通り、過失がなければ責任を負わないという原則です。

このように、民法の三大原則の、「過失責任の原則」と、「私的自治」つまり、“自分の意思や活動に由来しないことに対しては責任を負わない”のふたつの意味で、「過失責任主義」であると、民法上の不法行為は原則として説明されることになります。

(2)無過失責任主義の加重
従来は、この民法上の不法行為においける過失責任主義の考え方により、国民・市民が自由な経済活動を行うことが、経済の発展に大いに寄与しました。しかしその反面、近現代となり、その問題点も露呈するようになりました。

たとえば企業の巨大化に伴い、公害問題が大きな社会問題となりました。

また、現在の民法の不法行為の類型においても、企業などの使用者責任を認める民法715条は、「応報責任の原則」という、“利益を得ているものが損失も負担すべきである”の考え方に基づき、また、土地工作物責任の民法717条が危険責任主義をとり、“自ら危険を作り出した者はその責任を負う”という考え方をとっており、民法上における不法行為は、過失責任主義から、無過失責任主義へ修正されつつあるともされています。

さらにたとえば、一昔前には、民事上の特別法として、製造物責任法(PL法)が平成7年に施行されました。この法律は、従来にくらべて非常に広い責任を製造者に負わせています。

もちろん、今回の最高裁判決の事件の加害者の元少年の親の新聞記事のインタビューにおける、「こんなことにまで親が責任を負わされるのは納得できない」という主張も、一般論としては理解できます。

とはいえ、11歳の少年がサッカーボールを蹴り、そのボールが原因で小学校のそばを走っていたバイクが転倒し、結果としてそのバイクに乗っていた男性が亡くなったのもまぎれもない事実です。この男性本人や、この男性を看病し、看取った遺族の方々の無念な、悲しいという思いも同様に重要なはずです。

不法行為の大原則である民法709条に、「故意または過失によって他人の権利または法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」と明記されている以上は、1960年代に大きな問題となった公害訴訟の当初において、因果関係が不明だと議論されたような場面は別として、今回の宇治市の事件のように、ある行為があり、その結果として他人の権利侵害や法律違反などがあり、損害が発生した場合は、やはり、可能な限り加害者やその関係者が損害賠償の責任を負うべきです。

(3)社会・経済への影響の懸念
一番心配なのは、これは杞憂かもしれませんが、今回のような判決を受けて、個人だけでなく、企業や、はては国や地方自治体までもが、誰もかれもが「こんなことにまで自分が責任を負わされるのは納得できない」と主張をはじめることです。

たとえば交通事故などが発生しても、「自分が責任を負うのは納得できない」として誰も損害賠償の責任を負わず、損害賠償の金銭を支払わないとしたら、恐ろしくてだれも街にでることもできず、社会の経済活動も停滞し、結局は国民・市民や国家の経済活動への大きな打撃となるでしょう。

(4)国家賠償制度
少し話が離れますが、民法の不法行為における国・地方自治体を対象とする分野が、「国家賠償法」と呼ばれるところです。この分野は、世界の歴史をみても比較的、新しい分野であり、フランスで1900年代、アメリカやイギリスで1940年代に整備され、わが国でこの制度が導入されたのは、戦後のことでした(櫻井敬子・橋本博之『行政法[第4版]』379頁)。

それ以前は、“国王や国家権力が悪をするはずがない”といった、「主権無答責の法理」(国家無答責の原則)などにより、国民・市民が国家の違法な行為により生じた損害に対して救済を求める道が、多くの国・社会で閉ざされていました。

戦前の日本の行政裁判法16条は主権無答責の法理を明記しており、大正時代に小学校の回転遊具の工作物責任を認めた先駆的な判決があったのですが(大判大正5年6月1日)、制度の開始はやはり、国家賠償制度を定める現行憲法17条と、それにもとづき制定された国家賠償法の導入された戦後となりました。

たしかに民法の不法行為が、あまりにも無過失責任主義の方向にシフトしてしまうことにより、今回の裁判の被告となった親権者の方のように、「こんなことにまで自分が責任を負わされるのは納得できない」という怒りの声がでてくることも理解できます。

しかし、逆に、今度は過失責任主義へ一気にシフトするということは、わが国の社会を、現代以前の、自由主義万能で、弱肉強食の、大企業や国家が良い目をみるばかりで、多くの国民・庶民がつらい苛酷な生活を余儀なくされる時代へ逆戻りさせることにつながりかねません。

5.今後の裁判などへの影響
なお、先般のブログ記事でも書きましたが、今回の宇治市の事件は、バイクで事故をこうむり、結局、亡くなられた男性の遺族の方々が、民事訴訟の名宛人として、加害者少年の親権者しか対象としていなかった点がやや気になります。

今回の事件が発生したのは、宇治市の公立小学校の校庭であり、時間も小学校の放課後の時間帯でした。加害者少年の親権者の民法714条の監督義務者の責任を主張すると同時に、愛媛県や今治市の地方自治体の責任を、国家賠償法で問い、また、あわせて公立小学校の校長などに対しても責任を追及するなどの方法がとられるべきだったのではないかと思いました。

たとえば、今回の最高裁判決も適法と認定して引用した、この事件の高裁判決の事実の概要等の部分をみると、小学生たちがサッカーをしていた宇治市の小学校の南門は、「門扉の高さ約1.3mの門」であり、「その左右には本件校庭の南端に沿って高さ約1.2mのネットフェンスが設置されていた」とあります。

しかし、一般人の感覚として、大人の腰より少し上くらいしか高さの無い、たった1.3m程度の校門やフェンスで、小学校の近隣の歩行者・運転者、住民などの生命・身体・財産などの安全が本当に守られるものなのでしょうか。

今回の事件は、どちらかというと、加害者少年の親権者を名宛人として訴訟を提起するというよりは、むしろこの公立小学校の教員や校長などの不法行為責任や、この公立小学校を監督する立場にある愛媛県などの自治体や国などをこそ名宛人とすべきだったような気もします。

今回の最高裁判決を受け、未成年者などが加害者となる民事上の不法行為の訴訟において、今後、同様の事件においては、被害者は、一定程度、訴訟が判決で認容される度合いが減ることになります。

被害者側が裁判で損害賠償を軽減される度合いを少しでも低減にする対策としては、うえであげたとおり、加害者の監督義務者の責任を問うのみではなく、国・地方自治体や、学校、公立公園、医療機関など、関係先をできるだけ幅広に訴訟の対象とすることが考えられます。

むろん、国・自治体、学校、公立公園、医療機関なども黙ってみているわけには当然いきませんので、それぞれの場面、責任分担などに基づいて、おのおののセクションがそれぞぞれリスクヘッジのために、最大限の予防・防御・自衛を尽くす必要があるでしょう。

とくに今回の事件のような小学校は、早急にネットのフェンスなどを都心の学校などのように、可能な限り高く上空にのばす必要があるでしょう。また、現在、全国的に公共の公園などで、「スポーツ禁止」などの禁止事項の看板がどんどん増えてゆく光景がみられているようですが、このような流れは、残念ながら、今後ますます加速することになるのではないかと思われます。

また、学校の教職員や病院の医師などは、これまで以上に厳重に損害保険会社の賠償責任保険などに加入する必要があるでしょう。

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