長女 発達障害
次女 一才違い
2年前の12月に離婚をし、親権を取られました。
しかし、離婚してすぐ、子供達は引き取りました。
一人は逃げてきて、もう一人は、元夫の携帯を使い、(たすけて はやくきて)
でした。
安定剤とお酒を飲みすぎて、自分に包丁を当てている姿を、子供に見せたそうです。
その時に、親権を渡すと言われましたが、子供達がこちらに来ると、何故か渡さないと言うようになったのです。
その時にも、今も、もう子供達は見ないし、金も払わない。と言われていました。
調停、裁判、全てが終わってから発覚したのは、元夫の発達障害。
子供は一人、発達障害と診断されていましたが、途中から私に会わせなくなり、小学校へも無理矢理通わせていました。
服を全部学校で自分で脱いで、さらには手を掴まれ、引きずって教室まで連れていかれて居たようでした。
子供達と過ごした日々は、壮絶で、発達障害を持つ子供は、死にたい。と、頭を打ち付けたり、それが1日に何度も、10分から15分続いた。
それをしない時は、物に当たった。
病院へ電話して、対応を聞いたり、ひたすら勉強して、これはどうか、あれはどうかと試した。
朝まで眠れない日々もあった。
子供は、自閉スペクトラム。
興奮状態が続くと、手足が出てしまい、眠りにも支障が出た。
子供が苦しんでいるのに、私は人任せになんて出来ない。
一緒に苦しんで、一緒に乗り越えた。
離婚は、子供の存在意義を根こそぎ失くす。
私も両親で味わった事がある。
あなたは生まれてきて良かったの!
奇跡だったの!
2回の流産の末、
子供は二人とも、産まれた瞬間、産声を上げなかった。
首にへその緒が絡まっていた。
医師が居た一人目は、すぐに連れていかれ、医師が居なかった二人目は、私が、【泣いていない!】とすぐに見て、慌てて連れていかれた。
そして二人とも、出産した後の私は、重度の貧血状態だった。
立ち上がった後、倒れ、気付いたら車イスだった。
妊娠して分かった、私の身体の事情。
子宮の卵巣が、人より小さかった事。
もう産むことは、死を意味する。
それほど自分の身体を削る。
二人の子供達が、宝である事は間違いない。
それを伝え続けた。
ママも一緒に死ぬよ!
それすら言う時もあった。
悲しむなら、それ程ママは、大事に思ってる!
次第に良くなった。
子供は、両親に似ることはあっても、同じ存在ではありません。
兄弟でも、似ることがあっても、全く違う人であるように、
一人の人間として、話してあげることが、とても大事だなと思っていました。
3ヶ月、更に3ヶ月、子供には、笑顔で助けられた。
そうでは無い子供も、実は言えないだけで、発達障害の子からのストレスで、感情は不安定だった。
自傷行為や、人に当たったり、物に当たらなかったものの、ほとんど同じ事を、もう一人の子供に話してあげて、自己肯定をしていった。
まだ安定はしていないものの、子供達はとても元気に過ごせるようになった。
学校へは行けなくても、中間の教室とある、別の場所で、友達を作りつつ、勉強はタブレット教材を取り入れて、2年生からやり直してる。
発達障害の子は、まだ睡眠前に、弱い安定剤を使用している。
生活においては、自分の身の回り、手伝い、無理無くさせているが、まだまだかな。
私の体調が、去年から良くなかった。
離婚前から、あまり出来なかった健康診断。
血液検査では分からなかったはず。
子宮内膜症ポリープ
子宮頚がん
どちらも細胞再検査。
子宮内膜症ポリープは、経過観察として、そこまで悪いものでは無かったが、
子宮頚がん
手術が必要かどうか、大きな病院で見て貰うことになった。
中度~重度の見分けがつかないらしい。
即座に考えたのは、子供達の事。
今となっては落ち着いてきた私の実母に、世話をお願いする形になると思い、親戚にも伝え、来て貰う事にもなった。
今となっては立派に大人になった甥っ子や姪っ子達。
子供達もとても懐いているし、力になってくれそうで、少し安心した。
子供達も、この春、小学の中学年と高学年になる。
心配させ過ぎず、私はしっかりと治して、これからの子供達と成長していきたい。
もし誰かが、苦しんでいて、この記事を読むことにより、少しでも前向きになれたら幸いです。
自分の身体を大事にし、子供達を育てていきましょう。
母強し、されど、人間なり。