>ブルーノ・サンマルチノ
>著・・・・・・・ジャイアント馬場
>私がブルーノと始めて会ったのは、初渡米武者修行中の昭和36年10月
>ニューヨーク地区に入っての初めての試合は、ワシントンDCでの対ゴードン・ネルソン戦
>この試合の会場控え室で、まだ駆け出しのブルーノと私は隅っこで小さくなっていた。
>この時に、ブルーノと私が出世を誓い合ったとされているが、私はまだそれほど英語が話せなかった。
>昭和38年3月、私が帰国する時に、ブルーノが、やがては俺とお前で世界タイトルマッチをやろうぜ
>と言って、あの太い腕で握手を求めてきた、私もその手を強く握り返して、うんとうなずいた。
>まぁ、出世を誓い合った訳だ。
>その後、私が帰国して第5回ワールドリーグ戦に参加した後、選抜戦で地方をサーキットしている時に
>ブルーノが、バディー・ロジャースを破って第2代WWWF世界王者になったというニュースを耳にした。
>悔しい様な・祝福してやりたい様な・しかも負けたのが私の大好きだったロジャースだったので
>その時の私の気持ちはかなり複雑だった。
>その後、二度目の渡米武者修行から帰国する直前、ニューヨークMSGのリングでブルーノの持つ
>WWWFヘビー級王座に挑戦した、1本目を先制され2本目で反撃にはいったときにカフュー(市条例)で
>無効試合となったが、MSGで世界タイトルマッチを、やった感激は今でも忘れられない!
>これでブルーノは約束を果たしたわけだが、次は私の番だ。
>昭和41年に初来日したブルーノが当時私が持っていたインター選手権に挑戦してきた。
>それにしても、日本武道館で60分時間切れの引き分けとなった時に、短期決戦の得意な
>ブルーノに、これほどのスタミナがあったのかと、舌を巻いた。
>これで、私も約束を果たしたと思っている。
>昭和47年8月、私が全日本プロレスを旗揚げした時に、外人招聘ルートを持たない私はまず
>ピッツバーグのブルーノの元を訪れて、相談すると、ブルーノは「俺に出来る事なら、なんでもさせてもらうよ」
>と言って、協力を約束してくれた。
>旗揚げ第1弾のジャイアントシリーズにも手勢を連れて参加してくれた。
>その後、WWFは、新日本プロレスと業務提携、これでブルーノを呼ぶのは難しくなると覚悟していたのだが
>ブルーノは「俺は、馬場の親友だ、金では動かないよ」とWWF代表ビンス・マクマホンに盾を突き通して
>私への友情を貫いてくれた、ブルーノほどの大物だから出来た事だろうが、私にとってこれほど嬉しい事は
>なかった。
>55年の全日プロ旗揚げ10周年記念のジャイアントシリーズにも引退直後だったにもかかわらず。
>コンディションを整えて参加してくれた。
>試合後の記者会見で、ブルーノは「今日の試合は、生涯のハイライトだ」と言っていたが
>私も全く同じ気持ちだった。
>平成11年1月31日、ジャイアント馬場さんが亡くなった時に、取材に来た日本のマスコミに対して
>ブルーノは「私はいま、一番の親友を失った、彼との約束は、そらが例え口約束でも
>ゴールドほどの価値があった」